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第六回目のテーマは「生きていくための術」
教育ジャーナリストの青木 悦さんとの対話。
   

教育ジャーナリストの青木 悦さんとの対話
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青木悦さんは、教育ジャーナリストとして、執筆活動、講演活動に大変忙しくしています。ご自身が過酷な子ども時代を体験しています。その生きた体験がベースとなって、常に子ども目線で人々にとても大切なことを伝えています。青木さんは、権力的な大人目線の“しつけ”ではなく、大人は先に生きている者として、子どもに生きていくための術(すべ)を教えるという視点に立つことが必要だと言います。33年間、教育の現場で取材を積み重ね、安心できる家族とは?いじめの背景にあるものとは?と、教育の問題点について、ぶれることなく子どもの立場に立って伝え続けています。
青木さんの生き方そのものが、生きていくための術を教えてくれます。

生家は四万十川の岸辺
箱 崎 : 青木さんのご著書を読ませていただいて、青木さんご自身の子ども時代のお話にとても共感しました。その辺のお話から伺いたいです。
青 木: はい。私は、1946年(昭和21年の8月)に、高知県の西の端にある、当時、中村市と言っていた小さな町に生まれました。平成の合併で、今は四万十市に変わりました。
箱 崎 : 四万十川のある「四万十市」ですか?
青 木: そうです。四万十川の岸辺の家で、私の生まれ育った家族には、その当時、農業をやっていた祖父母と、戦争が終わって引き揚げてきた軍人だった父と、母と、5歳上の兄と、それから2歳下に妹がいます。私はきょうだいの中でちょうど真ん中で、戦後すぐに父が軍隊から帰ってきて、最初に生まれたのが私でした。

母は、女の子の名前に「子」をつけるという当時の名前のつけ方が嫌だったらしくて。女だからって、これからは職業に就いて自由に生きていかなきゃいけないというような思いを込めて、「悦子」から「子」を取っちゃって、私の名前を「悦」としたらしいんですよ。そのことをずっと語り聞かされてきたから、ああ、そんなふうに生きていかなくちゃみたいな思いが私の根底にあったんでしょうね。でも、母の信念も中途半端で、2年下の妹には「子」がついているんです。

兄や妹のことは、あんまりここではしゃべりたくないんですよね。同じ家庭に育っても子どもによって受けとめ方ってやっぱり全然違いますしね。ある意味で私よりひどい目に遭っていても、人には言いたくない、知られたくないというのも当然兄妹の中であるので。兄なんかはもう触れられたくないというような感じですしね。
だから、兄妹のことは何も今はここでは言えないんですけどもね。

私個人は、生まれてから最初に覚えている記憶は、母と逃げている記憶なんですよ。夜道に素足で、当時、「ズック」と言っていた運動靴をそのまま引っかけたり、あるいはサンダル履きや裸足で逃げている記憶なんです。それから、昔は電球が上から線で吊るされていたんですけれど、それがグラグラ揺れて、母が泣いている声と床にぶつけられるドーンという音がして、次は自分だなという恐怖心があって、体に力がビーンと入ってしまう、そんな記憶が最初の記憶なんですよ。

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