第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回
 
1   2   3   4   5
 

引土 絵未(ひきつち えみ)

1976年広島生まれ。
広島県立女子大学(現広島県立大学)卒業後、精神科ソーシャルワーカーとして主にアディクションからの回復支援に携わる。在職中にアメリカの治療共同体に感銘を受け、大学院で治療共同体について学ぶことを決意し、5年半勤務した精神科病院を退職。その後、首都大学東京大学院社会科学研究科社会福祉学専攻博士前期課程修了し、現在、同志社大学社会学研究科社会福祉学専攻博士後期課程にて、アメリカの治療共同体の日本での実現に向けて、現地での研修を重ね勉強中。
 修士論文『「当事者」「援助者」を越えて−治療共同体AMITYにみる援助方法の一考察−』。
 
スチューデントたちの語りから
 前回、私自身のAMITYでの体験からエモーショナル・リテラシーとデモンストレートへの挑戦について触れた。 今回は、エモーショナル・リテラシーとデモンストレートを通した援助のあり方について、AMITYのスチューデントたちの語りから触れてみたい。。

マイキーの物語
 最初に、私の人生を変える大きな贈り物をくれたマイキーについての語りを紹介したい。  彼は、AMITYに入所して1年になる22歳の青年だ。当初7ヶ月のプログラムを終了し、中 間施設で生活していたがうまくいかず、再びAMITYに戻り現在見習いとして3ヶ月勤めてい る。

 「僕が15歳のとき、母親がお酒を飲み始めて、問題は始まったと思う。彼女はアルコホリックでどんどん悪くなって、16歳のときに自殺で亡くなった。その時から本当に無関心無感情になって、自分の薬物とお酒のアディクションはどんどん進んでいった。
20歳のとき28日間の治療に行った。それが最初だった。そしてそこから出たとき、すぐには使ってなかったけど、自分自身によい感情をもつにはプログラムは十分じゃなかった。
 僕はそれから6ヶ月間薬物とお酒を使い続けて、人として崩壊しようとしていた時、父さんのところに助けを求めた。そのとき僕はほとんど路上で生活していた。父さんは1週間付き添ってくれて、ここにくることができた。路上のいかれた男がこんな素晴らしい場所にくることができた。そうして人生が変わった。」

 このようにしてAMITYにつながったマイキーは、当初は心を閉ざしていた。
「以前、僕は本当に物静かな人間だったし、自分の殻に閉じこもっていたし、かなり怠け者で本当に何もしなかった。すべてを溜め込んで誰も受け入れず、どんな真実も持たなかった。どんな感情も否定的だったし、感情から逃げようとしていた。それは否定的でよく思えなかったから。僕は感情と共存できなくて薬物やアルコールで逃げようとしていた。ここにきて3ヶ月間は感情的な成長は全くなかった」

 3ヶ月たったころ、マイキーに変化が訪れた。

 「3ヶ月たったころ、AMITYの人たちと僕はとても強い結束を持ったように感じた。そして彼らを本当に尊敬した。そして彼らは僕に変化をもたらしてくれた。僕にとって誰かに何かを話すことはとても大変なことだったけど、少しずつ自分自身について自分が心地よいと感じる人に少しずつ分かち合った。彼らは僕に働きかけ続けてくれ、正しい方向に僕を導き続けてくれた。
 AMITYは自分が心を開き自分の感情を表現することができるよう助けてくれた。そして、どのように感じたらいいのか、必要なときにどのように感情を表現したらいいのか知り始めた」

 こうして周りのスチューデントやスタッフから、感情の表し方や経験を語る方法を示されることで導かれ、マイキーは成長していった。

 「本当にAMITYは自分の人生を救ってくれた。子供の時以来始めて本当の幸せを感じている。今は自分の考えや気持ちを人と分かち合うのを心地よく感じている。今の僕は社交的な人間とまではいかないけど、ここではみんなにすべてを話すようにしている。以前は集団がいるとできるだけ遠くにいこうとしていたけど、今は集団にいることを心地よく感じている。
次ページへ
 
1   2   3   4   5
 
   
 
COPYRIGHT(C)2006 ORANGE RIBBON-NET & THE ANNE FUNDS PROJECT ALL RIGHTS RESERVED.