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箱 崎 : |
2回目の児童養護施設での生活について聞かせてください。 |
渡 井: |
私がいたのは施設の中の一軒家で、若い男女の職員2人が住み込みで、あとは非常勤の職員がいて、家政婦みたいな感じの補助の方がいて、子どもは8人から10人ぐらいいたと思います。そこに、弟と妹も一緒に暮らすようになりました。 |
箱 崎 : |
そこでの生活はどうでしたか? |
渡 井: |
私、緘黙になっていたんです。妹弟とはしゃべるけども、ほかの人がいるとしゃべれなくて、妹弟としかしゃべれなくて、今、振り返るとわかるんですけど、ここは安全な場所なのかなあと、最初は探り探りだったかと思います。当時はそういう自覚はないですけど。だから、大人の些細な行動でそれをはかっていて、私はしゃべらなかったのだと思います。弟は、まだ幼児だったと思うんですけど、同じホームに中高生のヤンキーみたいな人がいて、髪を金色に染めていたその子が、弟の背中を思いっきり叩いているんですよね。手形が残るのを「モミジ」と言って。でも、弟は、ぎゃあぎゃあ泣いているから、もう遊びじゃないわけです。一軒家だから、わあわあ泣いていたらわかるのに、職員は注意してくれないんですよ。 |
箱 崎: |
無視されている感じに思えてしまいますよね。 |
渡 井: |
私がしゃべらないことで、悪口を言われても言い返せなくて、誰も助けてもくれなくて。大人への不信感が強くなったように思います。しゃべれないけれども、感情はあるので不快で。だから、何かあったら守ってくれたりしたら、その大人の人に対しても心を開けたと思うけど、そういうのがありませんでした。私の母も、プラスの評価とかしてくれることってなかったんですよね。そのためか、自分から人と話したいとかっていう気持ちはなかったんです。妹、弟の世話はするけれど。だから、環境が整っているから小学校は行けるようになったんですけれど、しゃべりませんでした。 |
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箱 崎: |
学校でもしゃべらなかったのですね。 |
渡 井: |
たぶん、授業中に先生からあてられたりとかしたら、読んだり応えたりはしてたと思うんですけど。自分からは話さないっていう感じですね。小学校では、私がしゃべらないから、男子とかはちょっとからかいたくなるじゃないですか。だから、「てめえ、あいうえおって言ってみろよ」とか言われて。でも、中学生になってからは、たぶん、ここは自分の住む場所なんだなと思えたのか、しゃべるようになったんです。徐々に、徐々にしゃべれるようになって、中学校は、2つの小学校から通ってくる感じだったんで、殻から出やすかったのもあったかと思います。 |
箱 崎: |
生活も落ち着いてきたのですか? |
渡 井: |
私が中学に入るころ、ヤンキーの子たちがいなくなったんです。それもあったのかもしれないですね。その子たちも、男のヤンキーの子はいなくなって、女のヤンキーの子は高校がうまくいかなくて、家出しちゃっていなくなって。だから、それと同時期にだんだん状態がよくなって、しゃべるようになって。でも、しゃべり出したらしゃべり出したで、中学生の女の子って何でもおもしろくないのか、私はいじめの標的になりました。 |
箱 崎: |
どのようないじめだったのですか? |
渡 井: |
プリクラが流行り始めた時期だったんですけど、「プリクラちょーだい」と言われてあげたら、私の顔をギザギザにして廊下に貼られてたり、イニシャルと一緒に「死ね」って大きく黒板に書いてあったりとか、ちっちゃく「死ね」という文字をたくさん書いて大きく「死ね」と書かれた紙が机の上に置かれてるとか、靴を盗まれるとか、授業中につくったものを捨てられるとか。もちろん、生徒からはみんなシカトなんです。しゃべりかけてもシカトされる。たぶん何か示し合わせてるんですよね。「あいつ、シカトね」みたいな。でも、もともと一人になれているんで。 |