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芹沢俊介(せりざわ しゅんすけ)
1942年、東京都生まれ。上智大学経済学部卒業。
主な著書に『現代〈子ども暴力論〉』『母という暴力』『家族という暴力』(以上、春秋社)、『子どもたちの生と死』(筑摩書房)、『ついていく父親』(新潮社)、『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』(岩波書店)、『経験としての死』『引きこもるという情熱』(以上、雲母書房)、『「新しい家族」のつくりかた』『死のありか』(以上、晶文社)などがある。新刊に『宮崎勤を探して』(雲母書房)
第5回 試しの時期 受けとめ―受けとめられ


 試しの時期について述べてみたい。
 試しとはなにか。リミット・テスト、つまり子どもからすれば、自分を受けとめてくれる受けとめ手として名のり出た人の受けとめる力の限界を試すことである。
 それもたんなる一時的な受けとめ手としてではなく、自分だけを受けとめてくれる特定かつ永続的な受けとめ手―里親―になりたいという人のその本気が試されるのだ。

 試し、試される関係の段階を試しの時期と呼ぶ。里親がどこまで自分を受けとめることができるのか、その許容の限度を知ろうとして子どもが表出するのが試し行動である。
 これ以上の概念理解は後回しにして、具体的な試し行動に触れることにしよう。家庭養護促進協会の冊子『親子になる』(1998) には次のような試し行動が列記されている。

(1) 過食
(2) 里母の70センチ以内にいつもいる・うるさがると泣き喚き、おしっこジャー、
 ウンチぽっとん
(3) 噛みつき・叩く・投げる・ごねまくる
(4) 親の嫌がることをする
 
(買い物に連れて行くと、ハンガーにかかった洋服を次々とはずす。
 絨毯におしっこをしたら親が困った顔をしたので、それ以降絨毯でおしっこする)
(5) 赤ちゃんがえり
 (オムツ、哺乳瓶、這い這い、誕生ごっこ―これらは母と子の密室のなかで)


 箇条書きをしたこれらの行動を眺めているだけでも、試しという言葉が比喩以外は子どもの表出に対してそれほどふさわしいものではないということが伝わってこよう。「まるで試しているみたいだ」といえるだけだ。幼ければ幼いほど「試す」という意図的な側面は小さくなり、もっとずっと切実な生存の根底にかかわる欲求表出であることが推測できる。
 
 受けとめられなかった過去をいま遡って、受けとめられ体験を求めてさまざまなかたちで受けとめられ欲求の表出すなわちイノセンスの表出をしているのではないだろうか。
 「試す」という言葉があてはまりそうなのは唯一、(4) の「親の嫌がることをする」だけである。これとても、なぜ嫌がることをわざわざするのかということを考えるとき、いつ怒り出すか、〈親子になる〉という意欲を放棄するか、その限界、親の許容範囲を試しているとみるよりも、自分だけにいつも関心を引きつけておきたいという受けとめられ欲求の表出とみなしたほうが適切であるように思えるのだ。

 対照的に里親(候補)は「試されている」という側面を大きく感じられることがあるかも知れない。子どもとの関係で、受けとめ手としての自分の力を子どもに「試されている」。自分がこの子の親になる気があるのかということを子どもに問われているのだ、そのような里親候補の自覚としてのみ、試しという言葉を使ってもいいように思える。

 ただしその場合も〈親子になる〉というプロセスのなかであくまでも「まるで試されているみたい」あるいは「まるで試されているようだった」という比喩として。
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