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芹沢俊介(せりざわ しゅんすけ)
1942年、東京都生まれ。上智大学経済学部卒業。
主な著書に『現代〈子ども暴力論〉』『母という暴力』『家族という暴力』(以上、春秋社)、『子どもたちの生と死』(筑摩書房)、『ついていく父親』(新潮社)、『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』(岩波書店)、『経験としての死』『引きこもるという情熱』(以上、雲母書房)、『「新しい家族」のつくりかた』『死のありか』(以上、晶文社)などがある。新刊に『宮崎勤を探して』(雲母書房)
第2回 <させる>養育と<受けとめる>養育 no.2

〈させる〉養育の話を続けよう。
〈させる〉養育においては、当然ながら子どもがみずからの意向を優先的に表出するような場合、親やおとなの拒否的な反応に出会うことになる。歓迎されることなどけっしてないといえる。親やおとなの指示を待つことがまず求められるのだ。

 ごく最近、たまたま入った食べもの屋でこんな場面に出会った。三歳くらいの幼児がハンバーガーのケチャップを口のまわりにつけていた。母親が拭くようにいい、バッグからティッシュペーパーを取り出そうとしているあいだに、子どもは袖口で口を拭ったのだ。それが母親のはげしい怒りを買った。どうして袖で拭いたのか、その問い詰め方は叩きこそしないが、ヒステリックで執拗をきわめた。
 母親が怒り出したのは、子どもが衣服を汚したせいではない。それは結果にすぎず、ほんとうの理由は子どもが母親の指示を待つことなく思わずとった自発的行動である。母親 にはそれが許せなかったのだ。

 ところで母親の怒りを買っている子どもはというと、これが奇妙なことにめげているふうにはみえなかったのである。母親のいつ果てるともしれない叱責=怒りの表出に顔色を変えシュンとして下をむいているのでもなければ、泣き出すのでもない。怒りに震えている母親と対照的にへらへらしていた。そんなふうにみえたのである。
 この子は母親の言葉など聞いてない。自分に向けられている母親の怒りを遮断している。同時に自分の内部に生じている母親への怒りや憎しみの感情もまた遮断している、と思った。母親に罵倒されている自分をもう1人の自分として他人事にあつかい、そしてほんとうの自分をその場から切り離し、退避させているのだ。精神医学用語ではこうした反応(無反応という反応)のメカニズムを解離と呼ぶ。

 なぜ解離が起きるのか。解離という防衛手段がとられるのか。
 子どものもっとも原初的な自己防衛手段は、いうまでもなく泣くことである。泣くことは無力である幼い子にとって二つの力としてのはたらきがある。
 一つは欲求充足を求める唯一の表出方法であること。空腹であるいは不安に捉えられおっぱいを欲しがって泣く子どもをイメージすればいいだろう。
 もう一つは自分を守る手段であることだ。自分のからだのどこかに異変が起きたときその危機的状況を母親に訴えたいとき、あるいはここに取り上げた母親と子どものエピソードにみられる怒りをぶつけてくる母親の矛先の勢いをひるませたいときなど、子どもは泣く。
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