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前の回の末尾に教室で教員の罵声を浴びているクラスメートに対して、「鈍感にならなければ子どもたちは教室では生きてゆけないのです」という養護の教員の言葉を引いた。
いたたまれない雰囲気の教室を自由に去ることができない(許されない)ならば、いま・ここにおける危機を切り抜ける道の一つが反応しないこと、鈍感になることである。
鈍感になるのとは反対に、その耐えがたい状態にノーの叫びをあげたがっている感情に
思い切って素直に自分をゆだねるという道もないではない。だがほとんどの子どもは、感情の正直な表出に身をゆだねてしまうことを怖れる。そうすることが場の空気を和らげるよりも、自分に不利な状況を引き寄せる危険性の方がはるかに高いことを知っているからだ。
だとすれば子どもたちに残された安全策は一つ。感情表出を抑えこんだり、押し殺したりすることで、いわば「いるのにいない」という状態に自分をもっていくことである。自分という身体をいま・ここに置いていながら、いま・ここにいて現実を感じている(ほんとう
の自分)をゼロに向かって狭め、閉じていくのだ。身体として振る舞っている自分を他人事のようにみなすことができるまでに。感情鈍磨も解離も、心身の分離を図るこのような自己の二重化の結果として理解できそうに思える。これをあらためて「いるのにいない」という状態と呼ぼう。
「いるのにいない」という状態は、いま・ここという場において、安心して安定的に自分が自分であることができない、自分が自分でいることができない、という状態から生まれる。安心して安定的に自分が自分でいられる状態、自分が自分であっていい状態が保障されていないと感じられ、にもかかわらずこの場で生きてゆかざるを得ない場合、こうした不安定状態から自分を守るために、子どもたちがやむなく編み出した現実対処法である。
ただしこのような対処法が必ずしも功を奏するとはかぎらず、かえって親や教員のさらなる怒りを誘発する場合も少なくないことも留意しておく必要がある。「養育の再構築」Aを読んでくれた虐待問題に詳しい知人が以下のような話をしてくれた。
一歳半の女の子がどんぶりを頭からかぶって食べ物を台なしにしてしまった。母親は激怒したが子どもは泣きもせず、へらへらしていた。その姿に母親は反省がないと感じてさらに怒りを強めていた。また5歳の男の子を虐待したかどで裁判にてその罪を問われた母親が法廷で述べた。「この子は私が怒っているのに、へらへらと笑って、ほんとうに頭にきた」。
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