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続き3・・・ しかしこうした「いい子」ぶりは、施設(養護施設)という場所、とりわけ大舎制施設が 採用している集団養育――集団優先の養育は必然的に〈させる〉養育の場になる――が要 求するきまりやシステムによって身につけさせられたものにすぎず、したがって子どもにとっては見せかけの自分でしかない、それゆえおそかれはやかれ崩れると岩崎さんは言い切っている。要するに期待は間もなく失望に変わるのだ。 事情が乳児でも変わらない。 〈乳児の場合でも、施設(乳児院=注)の時と同じようにきめられた時間にきめられた量 のミルクを飲んでくれたり、離乳食をしっかり食べてくれたり、機嫌よく寝て、機嫌 よく起きてくれたりします。それもだんだん崩れて、むずがることが多くなってきま す。〉(注2) 岩崎さんが「きまり」や「システム」と呼んでいるものは、集団養育(そんな概念が成立 するのなら)の基本的な特徴をなしている。集団養育では〈させる〉が〈受けとめる〉に優 先する。つまり個々の子どもの欲求、個々の子どもの事情を優先的に受けとめるよりも、 きまりやシステムが優先するのだ。集団養育ではそこにおけるきまりやシステムにもとづ いて、一日一日が動いていくよう組まれている。職員の仕事は、このシステムがきちん と作動するための管理である。職員は養育者ではなく、管理者でしかない。(注3) 子どもたち個々の気持ちや意向や欲求の表出は、きまりやシステムに対する違反とみな され、罰の対象になったり、それがたびたび繰り返される場合、施設は子どもに養育困難 児というラベルを貼り、措置変更という伝家の宝刀を抜くこともできる。措置変更とは施 設から追放すること。 だから子どもは、集団主義的養護施設におけるいま・ここという場において、安心して 安定的に子どもたちが常に「いるのにいない」という緊張状態に置かれていることがわか る。「いい子」という迎合がここに生じる。子どもが見せる「せっかくつけてもらえた良い 習慣」は、それに従わなければ施設で生きて行けなかったきまりやシステムの要求したも ので、自発的に身につけたものではない。その場を離れた途端、良い習慣は跡形もなく消 える運命にある。良い習慣は〈させる〉養育では身につかないことが伝わってくる。 里親の家に迎え入れられること、これは次の点で子どもにとって根本的な変化である。 子どもは顔のない取り替え可能な管理者を離れ、顔のある里親との暮らしがはじまるので ある。言い換えれば自分だけの特定の永続的な受けとめて手――ほんらいの意味での養育 者、私はこの受けとめ手を母と呼ぶ――と出会うことになる。この養育者=母とともに子 どもは、〈親子になる〉という道を歩みはじめるのだ。(注4) 乳児院、児童養護施設を離れ里子として里親の家に移ることによって、見せかけの自分 は崩れはじめる。崩れる過程にとことん身を委ねることによって子どもは、この人たち、 この家が、安心して安定的に自分が自分であっていいのだということをほんとうに保障し てくれているのかどうかを試すのだ。「いい子」という見せかけの自分が崩れる時期が試し の時期である。試しの時期をくぐらずに親子になることはできない。試しの時期について は、後に触れよう。(次ページへ) |
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