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続き2・・・

 ところが当の子は泣かなかったのだ。泣かなかったということは、母親の攻撃に対する防衛方法として泣くことは効果がないということを子どもが知ってしまったことを告げている。それどころかあるときから泣けば泣くほど、母親の怒りがはげしくなるということを知ってしまったということさえ考えられるだろう。きっとこの子は自分の意欲を優先するたびにいつも母親のはげしい否定的反応に直面してきたに違いない。子どもはとっくに泣くことでは母親の怒りを沈静化できないことを知って、泣くという自己防衛手段を放棄したのだ。

 ではどうすればいい? その場を外す、母親の前を離れることだ。確かに母親から離れることができれば、それに越したことはない。けれどそのような高等手段を母子関係において子どもが採用することは経験的にいって、きわめてむずかしい。かなりの年齢に達していてもむずかしい。だいいち母親がそれを許さない。

 母子関係というのはどんなに深刻な事態に立ち至っていても、両者のどちらもその場を なかなか逃れ得ないものなのだ。胎児期、乳児期という濃密な一体性の段階を初発において共有してしまったせいだと思われるが、とりわけ子どもは逃げられない。逃げないから抑制力を失った母親は子どもに言い募りたいだけ言い募ることになる。これは子どもを殴りたいだけ殴りつけているのと同じである。物理的暴力と言語による暴力は、子どもに与える打撃において等価であることは留意しておく必要があるだろう。それゆえに母親に自己抑制的であることが求められる。そうした場面においては早めに席を立って事故の怒りの奔逸が子どもに向けられる事態を回避しようとする努力が母親にこそ求められるのだ。
 子どもは泣くこともできなければ、その場を逃れることもできない。母親の怒りの表出を沈静化もできなければ、回避することもできない。

 では、どうすればいい? どうすることもできない。こうした窮地が、もう1人の自分を分離し、母親の向けてくる怒りからほんとうの自分を守るという防衛方法を編み出す機会を子どもにもたらしたのである。だが、自己防衛のしかたが病理性の領域に近づいていることも否めない。注記しておくと、このへらへらはいきいきとしたからだ全身の表情のあるへらへらではない。事態は逆でからだはむしろ無表情なのだ。表情を失った子どもたち。このような病理性に親近しなければならないほど追い詰められた子どもたちが「突然キレる」のではないだろうか。
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