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続き2・・・

  〈させる〉養育の行き着く地点が「いい子」であることはいうまでもあるまい。この道は親にとっても子にとっても不可避である。「いい子」とは親の意向、おとなの意向をあたかも自分の内発的なモチーフであるかのように生きることを自分に課してしまった子どものことである。

   「いい子」の不幸は、「いい子」を生きるためのエネルギーを、自分の意欲を殺すことによって汲みだしてこなくてはならないことだ(*2)。それゆえ「いい子」はおそかれはやかれ、ガス欠という事態に逢着する。いわゆる「いい子」の息切れ現象である。子どもも親も予想外の事態にあわてて、エネルギー・チャージを試みようとする。勉強時間を増やしたり、家庭教師をつけたり、といった応急処置がとられる。それもしかし一時しのぎでしかなく、すぐに無効であることを知ることになる。むろんガス欠は予想外のことなどではなく、逆に予測できること、〈させる〉養育の帰結であったのである。
  チャージしようにも、もはや子どもには殺すべき自己の意欲が枯渇しているのだ。「いい子」におわりがやってきたのである。
  見方を変えれば、こうしたエネルギー枯渇状態は「いい子」を降りるチャンスである。だが二つの意味で親も子も「いい子」の崩壊という事実を直視することができない。直視できないことによって、事態は子どもの実存の危機と家族解体の危機という二つの相を帯びるところまですすむ。

 第一は子どもの側の問題である。一度「いい子」という評価を得てしまった子どもは、そのくびきを脱することがむずかしい。
 そのため、「いい子」のあるタイプは、表で「いい子」というアイデンティティを維持しつつ、裏で「いい子」を裏切るという挙に出る。優等生の自傷行為、優等生の援助交際などはそうした二面性の端的な例といえる。

 だが誰もがそのようなアクロバチックな綱渡りを演じることができるわけではない。多くの「いい子」は、たとえ「いい子」でいたくないと思っても「いい子」以外の生き方がわからないと、述べる。「いい子」というアイデンティティを失ってしまったあとの空洞状態に対処できるかどうかおぼつかないというのである。「させられる」ことに素直にしがたってきた子どもは、みずから〈する〉ことがどういうことかわからないのに相違ない。このことのおびえのために、とっくに「いい子」を維持できなくなっているのに、「いい子」というアイデンティティにしがみつこうとする。こうしてもはや「いい子」の内実をうしなっているにもかかわらず、「いい子」を投げ出すことができないという「いい子」のジレンマに見舞われることになる。

 こんな話を聴いたことがある。
 十五歳の中学二年から不登校状態にあり、家庭内暴力のある子どもの母親は言った。彼は中学に入るまでお父さんに怒鳴られ殴られながら勉強して、クラスで抜群の成績をおさめることができた。ところが、中学二年の夏休み以降、急に失速し出した。彼は焦り、理由が分からないまま、またお父さんに怒鳴られ殴られながら勉強すれば、もとのような好成績を回復することができるかもしれないと考えた。同じ意見だった父親との異様な二人三脚が再現された。けれど回復するどころか成績は落ちる一方だった。―――
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