高校時代の成績はきわめていびつでした。生物や日本史がずば抜けて良かった一方で数学や物理などの理系必修科目はほとんど学年最低レベルでした。誰が考えても文系人間でしたし、ピアノで女の子が釣れることに味をしめていた私は、迷うことなく音大のピアノ科を目指そうと思ったのです。でも、その話は受験の直前まで伏せていました。いよいよ進路指導の相談が始まったときに初めてそのことを話したのですが、大変なことになってしまいました。寝耳に水の両親はただただ驚愕して「芸術系だけは絶対に許さない!そんなものは学問ではないし、大体お前にはそんな才能はない!」と、この時ばかりは父も母も頑として反対しました。ただ、「趣味として続けることまでは反対しない」・・と。
この親の謀略にまんまとひっかかってしまいました。でも、それで医学部に行くことを決めたわけではありません。私の第二志望は文学部史学科でした。実は両親はその進路についてはOKだったのです。今度反対したのは担任の先生でした。「絶対にダメ!社会科なんて食べていけないよ」担任の先生は日本史の先生でした。あれやこれやと裏話をいろいろと聞かされ、とうとう丸め込まれてしまいました。最後はやけくそです。一つ年上で寝ても覚めても想い続けていた女の子が前年、某大学の医学部に進学していたので、その子の名前を挙げて「〜さんが医学部行ってるから俺もそうするわ!」両親は大喜びでした。
世話のかかる子どもほどかわいいと言うのはどうやら本当のようで、私の場合も何だかんだと苦労をかけるものの最後は親の思い通りになっている、そこが両親にとっては良い子に見えて仕方がないのでしょう。でも、これまで書いた悪事の数々だけでなく、その後も現在に至るまでとてもとても書ききれないほどの悪事の限りを尽くしてきたのですが、親はそのことをほとんど知りません。
最近の様々な事件を見ていると一つ間違えば自分もきっと同じことをしていたかもしれないと思うことがよくあります。私が極悪犯人にならずに済んだのは、ただ単にラッキーだったとしか言いようがないのです。ただ、何かあるとすれば両親や周囲が常に倫理的な議論を私に投げかけていたことが大きかったと思います。そういえばこれだけ悪さをしてきても私利私欲に走ったことは一度も無く、常に真実と正しいことを追い求める姿勢だけは貫き通してきたのです。
今年の2月、父が体調を崩したのをきっかけに、私は父の創業した医療法人の理事長職を継承しました。いろいろと抵抗したり暴れたり、まるで孫悟空のような半生でしたが、結局は親の思い通りというお釈迦様の手のひらの上で喜劇を演じていただけなのかもしれません。
私自身も父親になり45歳になって老眼も入ってきたのですが、父や母にとってはいつまでも子どものままで頼りがなくて仕方が無くてとてもおちおちと隠居などしていられないようです。でも、本当は私がそのように演じて、ぼけてしまわないように仕向けているのですけどね。良い子の最後の役割は頼りない子を演じて親を元気で長生きさせることかな?これが天邪鬼な私の最後の親孝行です。(了)
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