3歳のときに、父の勤務先が大阪市内の病院に変わり新しい病院の医師宿舎へと引越しました。1000坪以上もある大きな屋敷からいきなり大阪近郊の30坪の小さな一戸建てに移ったのですが、今度の場所は百人一首にも詠まれ、終戦後は米軍に接収されていた高級住宅地で周囲は経営者や医師、銀行員ばかりの超エリート集団の街でした。これはこれで両親のエリート意識を高揚するのに相乗効果をもたらし、隣近所の同世代の親たちと一緒になって子どもたちの浩宮様式教育に熱を上げていたのです。「習い事は3歳から」「スパルタ式教育」などが親たちのベストセラーでした。
まず、最初はピアノから習わされました。3年保育の幼稚園はお受験で有名な幼稚園、しばらくすると毎朝6時から基礎英語を聞かされていました。地元の小学校には柄の悪い泉州のガキどもが混じっていると言うことでハイソグループはこぞって電車で数駅先にある隣の市の進学校に越境入学させられました。考えてみれば全く親の言いなりで、親にとって都合のいいことだけをするように洗脳されて行ったのです。それでもピアノなど何のためにするのかもわからず、ちょっと指を間違えただけでヒステリックなおばちゃんの先生にアホほど怒られるので嫌で嫌でたまりませんでした。
ある日、留守番をする時に母が「ちゃんとピアノの練習をしておきなさい。弾いたかどうかは帰ってからピアノを見ればすぐにわかるのよ!」と言われたのをきっかけに一計を案じました。子どもなりに一生懸命に考えたのです。「きっとピアノを弾いたか弾かなかったかだけがわかるに違いない。それなら!」と、ピアノの蓋を開けて両手でバチャバチャバチャ!と鍵盤を叩いてそのまま蓋を閉めたのです。果たして母親は帰ってくるなり「ちゃんと弾いた?」と聞きました。「もちろん!」と言いながらドキドキしていたのですが、母親は「そう、偉かったね」と言ってオミヤゲのたこ焼きをくれたのです。「ムフフフフ、シメタ!」と思いました。それが記憶に残っている最初のワル知恵です。面従腹背、何て恐ろしいガキなのでしょう。その後、私の反抗技術は年を経る毎に巧妙になっていきました。
大阪万博が開催された昭和45年、私は小学校3年生になっていました。その年の暮れに父が開業することになり現在の家に引っ越すことになりました。今度は150坪の敷地でしたがいわゆるニュータウンで当時は鉄道も未だ通っておらず「陸の孤島」と称される場所でした。それまでのハイソな環境から一転して開拓時代のアメリカのような環境に変わりました。
これが子どもにとってはまさに天国!開発途中の宅地は広大な空き地で思う存分遊ぶ事ができました。鉄道工事の線路に放置してあるトロッコに乗ったり近隣の旧部落の畑に野菜を掘り返しに行ったり、造成地で土を掘り返すと4世紀頃の土器のかけらがいっぱい出てきました。腰に枯れ枝で作った刀をいっぱいぶちこみ、ポケットには癇癪玉を詰め込んで近隣の小学校のワルガキどもと所場争いの抗争や基地造りを繰り返していました。母はそんな私を見て頭を抱えていましたが私にとっては一番楽しい時期でした。(次へ続く→3へ)
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