「良い子」を演じて45年 (4)
大阪府監察医、児童虐待等危機介入援助チーム委員
       河野 朗久
 11歳の健康な少年の急死は世界的に見ても珍しく、しっかりとした死因調査をすれば何か新しいことがわかったかもしれません。そのことによって何も関係ない少年がいわれの無い中小誹謗やリンチを受けることも無かったかもしれないのです。私は大阪府の監察医以外に現在その地区を担当する地元の警察医も兼任していますが、法医学の専門家として検視のレベルは監察医並みの精度を維持したいと考えています。
 
  さて、冬休みが過ぎて新学期が始まるともう彼らが私をリンチすることはなくなりました。リンチを率先して扇動していた2人のワルガキの家庭には複雑な事情があり、それも妬みの原因であったに違いありません。親の離婚による家庭崩壊でした。そして今度は私がリベンジを始めたのです。今から考えると二人の一瞬の心の間隙を狙った攻撃でした。 

  ニュータウンの小学校では、毎週のように転校生が入ってくるのでクラスの勢力地図はあっという間に変わります。成績だけは飛びぬけてよかった私は誰からも一目置かれていましたし、特に都会系の女子には人気がありました。男子と組むよりも女子と組む方が社会的効果がはるかに高いということに気づいたのもこの頃でした。新しく都会から転校してきた頭が良くて美少女の女の子を篭絡して、私へのリンチを率先していた二人のワルガキを女子軍団が完全に孤立させてしまったのです。
   小学校の児童会の役員選挙はまるで人気投票のようなものですが、4年生以上の全校生徒で行われる小学校6年生の最後の選挙で圧倒的多数票を獲得して私は児童会の会長になりました。リンチを扇動していた2人は見る影もありませんでした。今から考えると残酷な仕打ちであったと思います。

  中学校に進学するときに、担任の先生の勧めもあって受験をすることになりました。とても受験できるような成績ではなかったのですが、まぐれで大阪では当時最難関と言われた国立大学の附属中学に合格し、エリート一筋だった両親をホッさせたのですが、それは甘い考えでした。

 私の家から中学校まで当時は電車とバスを3回乗り継いで片道1時間半の道程でした。当時の通勤電車はまさにすし詰めの状態でとても真っ直ぐに立っていることなど不可能でした。全速力で走れば小学校まで30秒!の通学からいきなり早起きして1時間半のすし詰めでしたから体力が持ちませんでした。おまけに中学校に入ってサッカー部に入ったものですから、家に帰ったときはクタクタで勉強どころではありません。あっという間に落ちこぼれて最初の中間試験から惨憺たる結果が続いたのです。進学校のヘドロ!と呼ばれる存在になっていました。

  ただ、凄惨なリンチを耐え抜いた経験は思いもよらず私を楽天家に仕立てていました。真面目な秀才タイプばかりの級友が多かった中で、女の子と臆面も無く仲良くすることだけは大得意だったのです。同級生だけでなく先輩・後輩の多くの女の子たちと仲良くなり、先輩の女の子は美女ばかり選んで「勉強教えてくださ〜い」なんて甘えていたのです。
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