そんなニュータウンでも当時は未だ医師の家庭は特別視されるところがあり、私が泥んこになって抗争しているとすぐに親のところに「お医者さんのところの坊ちゃんが泥んこになってけんかしている!」と告げ口をされたのです。本当に要らぬおせっかいでした。そんなかでも習い事はいろいろと行かされました。ピアノに剣道、英会話教室に水泳、算数教室に家庭教師の来訪と一週間のほとんどの予定はびっしりと詰まっていたのです。
でも、英会話や水泳は本当に嫌でした。英会話教室はいつも最後に出席をとるので授業の終わる10分程度前に入ることにしていました。家を出てからぶらぶらと公園で遊んで時間を潰しているのです。水泳教室は電車に乗って行かなければならない遠方にあったのですが、行くふりをして公園で遊び水着だけを水道で濡らしておきました。もらった交通費はもちろん私の「たこ焼き」代に変わってしまうのです。でも、これは数ヶ月でバレてこっぴどく怒られてしまいました。
小学校5年生の年の12月、悲しい出来事がありました。私と仲の良かった同級生が学校の帰り道で私と別れた直後に路上で急死してしまったのです。私の家の真ん前でした。その子の家まではあとほんの50メートルです。その子のお母さんを呼びに行き、すぐに私の家の診療所に運び入れて父が診たのですが、全く反応しませんでした。
葬儀が終わった次の日から何だか学校に行くと様子が変でした。「あいつが殺したんと違うか?」「そう言えば何か怪しいで」「あいつの親父藪医者やから助かれへんかったんと違うか」・・・皆がヒソヒソ話をしており私が学校に行ってもいっせいに無視をするのです。壮絶ないじめの始まりでした。いじめは日を追う毎に酷くなっていきました。集団暴行は毎日です。
ある日学校へ行くと一人の女の子が申し訳なさそうに声をかけてきました。「運動場でドッジボールするから待ってるって言ってたよ」私は喜んで飛び出して行ったのですがそれはワナでした。私の陣地は二つに別れたドッジボールの陣地の境界線上に小さな円が描かれており、そこに立たされたのでした。両方の陣地からボコボコにボールをぶつけられました。成績が良く家も裕福で羨望の的であった私は多くの妬みを買っていたに違いありません。2学期の終了まで約2週間の間、毎日のように凄惨なリンチを受けましたが、一度も泣かずに最後まで耐え抜きました。どんなに辛くても両親にも担任の先生にも一言も言いませんでした。
このときの経験が医師になってから子どもの突然死や虐待の研究に取り組むことになった原点にもなっています。赤ちゃんを突然亡くした母親が周囲からいわれの無い誹謗中傷を受けたときの気持ちが私にはよくわかります。学校の中でいじめを受けている子どもに学校や周囲の大人が気づかない状況も私にはとてもよくわかるのです。
その事件から25年経って大阪府下の小児の突然死症例の調査を行うことになったとき、私は府警本部の地下倉庫で真っ先にこの変死事件の記録を探し出しました。大阪府下とはいえ監察医制度区域外であった地域での検視は当時、地元の法医学を知らない警察医が担当しており解剖検査も行われないまま「急性心不全」として処理されていました。(次へ続く→4へ)
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