「良い子」を演じて45年 (5)
大阪府監察医、児童虐待等危機介入援助チーム委員
       河野 朗久
 クラブはいつの間にかサッカー部から女の子に誘われるままにコーラス部へと変わり、勉強はできなくてもピアノだけは人一倍上手に弾けたことと、とにかく走るのが速かったことから、勉強は出来ないアホであったにもかかわらず結構もてていたのです。育ちのいい国立の進学校なら校内暴力やいじめなどないかと言えばそんなことはなく、先輩の可愛い女の子に片っ端から手を出していた私は先輩の男子生徒からはかなり睨まれており、石を投げつけられたり「つけあがるなよ」と凄まれたことは一度や二度ではありません。

  でも、そんな私を助けてくれたのはいつも女の子だったのです。学年一の美女に「あんた、下級生相手に何やってんのよ!」と言われたら上級生の男子生徒はこそこそと逃げていってしまいました。
中学校の窓ガラスが割られる事件はいまでも時々ニュースになりますが、学校始まって以来最多の窓ガラスを割ったのは私でした。窓ガラスだけでなく教壇や教卓、鍵のかかったロッカーなど実に多くの器物を蹴飛ばしたり放り投げたりして壊してしまいました。学校中のチョークと黒板消しを隠して授業ができないようにしてしまったこともあります。 

  授業中のエスケープや校内ストリーキングなど問題行動は数限り無くやっており、長い間私の机は教卓の真横の指定席!でした。早い話がどうしようもない問題児だったのです。附属中学から附属高校への進学は3分の1が落とされて放り出されます。成績の面からも素行の面からも私など絶対に上には上がれないはずだったのですが、これもまぐれで附属高校に進学させてもらうことができました。外に出したら学校の恥になると思われていたのかもしれません。

 高等学校に入ると不良ぶりはますます磨きがかかりました。昭和50年代前半は高校生が荒れた時期で校外暴力が社会問題化していました。それでも国立の附属高校は育ちの良い生徒が多かったこともあってそのような問題とは無縁だと思われていたのですが、私は違いました。きっかけはやはり女の子で、通学電車の中でイチャイチャしていたら不良丸出しの某工業高校生がいきなり蹴りを入れてきたのです。普通の附属高校の生徒ならばここで恐れて逃げてしまうのですが、私は「いきなり何さらすんじゃこのボケーッ!」と言うなり相手の顔面を殴りつけ、相手の歯を数本折ってしまったのです。
  その場は周囲にいた大人が慌てて止めに入ったのですが収まらなかったのは相手です。翌日に20数名でチェーンや鉄パイプを持って学校に殴りこみに押しかけてきました。教官の機転ですぐに警察が入り他の生徒に被害はなかったのですが、この事件のおかげで親は呼び出しをくらうは喧嘩両成敗で停学はくらうはでたっぷりと搾られました。
意外だったのは高校の教官が「お前、ようやったなあ」と呆れながらも半分褒めてくれたことでした。「うちの生徒は喧嘩なんか絶対にようせんと思ってた。ましてや相手を叩きのめすなんて・・」学校内の他の生徒の評価も一様に「よくやった」・・・半ば英雄扱いで何だか変な気分でした。
次へ続く→6へ
1234|5|6
    ←戻る 次へ→
 
COPYRIGHT(C)2006 ORANGE RIBBON-NET & THE ANNE FUNDS PROJECT ALL RIGHTS RESERVED.