子どもの頃の記憶はいつ頃からあるのでしょう? 私が辛うじて断片的に覚えているのは2〜3歳頃からでしょうか。一番初めに住んでいた医師宿舎はそれはそれは大きなもので、大阪南部唯一の城下町岸和田の1000坪を超える上級武家屋敷でした。今の時世ではとても考えられないことですが、私が生まれるまで父と母はたった2人でその屋敷に住んでいたのです。
私が生まれたのは昭和36年、その頃堺から和歌山までの大阪南部に大きな病院と言えば父の勤務していた病院だけしかなく、明治維新から未だ100年も経っていなかった当時、田舎の城下町では「お医者様の先生様」と言えばお城の御家老にも匹敵する扱いでした。それから3歳になるまで私はその屋敷で大勢のギャラリーに見守られて育ったのです。時あたかも浩宮様(現・皇太子殿下)が生まれて間もない頃で、日本中が幼い子どもの子育て論議に熱を上げていました。
母は新潟県の小さな城下町で御家老の家以外で唯一「様づけ(〜様と常に敬語で呼ばれる家柄の事)の家」と呼ばれる家柄の家に生まれたわがままお嬢様ですが、大学を卒業して教師になるまで常にオール(甲)で飛び級までして僅か20歳で中学の教壇に立ったエリート、母にとっては勉強なんて首席になるのが当たり前でした。
父の実家は母の実家ほど裕福ではありませんでしたが、丹後地方の天領で大庄屋を務めた家で父自身も学校では常にオール(甲)の飛び抜けたエリートでした。中学校の先生の勧めで当時の最高エリートが進学する航空士官学校の入学試験に合格したものの終戦になってしまったので医学部に入りなおしたそうです。
要するに私は品行方正なエリート両親の下に生まれ、御家老級の大きな屋敷で乳幼児時代を過ごしたと言うわけです。そんな両親が周囲の目を意識して私を浩宮様のように育てようと考えたのは無理からぬことだったのかもしれません。今から考えると大笑いなのですが、当時の私に対する躾はすべて皇室式!でした。
父や母のことは「おとうさま」「おかあさま」でしたから、どこへ行っても「おかあさまぁ〜おまちください〜」なんて言っているわけです。だんじり祭りで有名な岸和田は大阪南部でも言葉遣いが粗いのが有名で「うおらっ!われ、何さらしてけつかんねん!どたまあぁかっちゃわんど〜!(=コラ!貴様、いったいどういうつもりだ!頭を殴り割ってしまうぞ!)」と言う様な言葉が日常用語として使われている地域ですから、周囲のギャラリーには私たちが大きな武家屋敷に住んでいることも相まって住む世界の違う特別な家庭に見えていたようです。
当時の患者さんとは45年経った今でもお付き合いがありますが、この歳になって「ぼん(坊やのこと)のオシメを替えたこともありまっせ」などと言われるのには閉口します。(次へ続く→2へ)
|