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粟津美穂(あわづ・みほ)
 東京生まれ。1978年、渡米。カリフォルニア州立ポリテクニック大学卒業後、時事通信社ロサンゼルス支局の記者となる。その後フリーランスになり、雑誌や新聞に米国の子どもや女性に関する記事を執筆。
90年代初めより、地域のDV被害者のための施設やユース・カウンセリング・プログラムの活動に参加する。95年、南カリフォルニア大学福祉学科で修士号を取得。ベンチュラ郡・精神保健局、少年院でインターンを経て、カリフォルニア州立精神科病院ソーシャルワーカー。2001年より4年間、ベンチュラ郡・児童保護局で十代の里子たちのソーシャルワーカーとして働く。2006年からワシントン州の児童保護局で0歳から16歳までの里子たちとともに仕事をして現在に至る。シアトル在住。
著書に、『こんな学校あったらいいな ミホのアメリカ学校日記』(ポプラ社・1988年)、『ディープブルー 虐待を受けた子どもたちの成長と困難の記録』(太郎次郎社エディタス・2006年)がある。
 
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〈経済不況の中で〉
10月13日  
 シアトルタイムス紙が“フォスターケア、いまだに苦戦”というタイトルの記事を載せている。児童保護局への苦情の数だけでなく、子どもの虐待による死亡の数が州全体で1年前より6件増えた18人になったことを伝えている。2004年、ワシントン州政府は*ブラーム裁判の結果、児童保護の仕事の実績を上げることを“和解交渉”というかたちで約束させられた。それにもかかわらず、「ソーシャルワーカーたちの成績は芳しくない」と、新聞記者は容赦なく批判を投げかける。 

 経済不況が深刻になってきていた。11月に入って、州政府の予算削減についてのメールが毎日のように目に付くようになった。中には州知事から直接送られたものもある。「この経済危機でワシントン州は50億ドルの負債をかかえており、経費を切り詰めるために職員すべての知恵を借りたい」という内容である。児童保護局の運営にかかる費用だけではなく、子どもたちの医療や教育、そして親子再統合のための、あらゆるプログラムの予算がこの先、大幅に削減されてゆく。

 そんな状況の中でどうやって私たちのクライアントである虐待をうけた子どもたちと、彼らの家族を支えていくのだろう。この途方にくれるような思いが、10月の新聞記事と重なり合った。「メディアは児童保護の日々の仕事の複雑さと困難さをほんとうに理解しているのだろうか。」そんなことを心のなかでつぶやいていた。
 
 2006年の秋、私はシアトルに移り住み、2年間、30マイルほど北のエヴェレット市にある児童保護局でソーシャルワーカーとして働いてきた。この予算縮小の対策の一環として、州政府は職員の州外への旅行をすべて停止するだけでなく、毎日の通勤にかかる燃費など、節約につながるすべてのことを実行に移すように要請した。
 この経費的な緊急事態の中で、私の2008年12月からのシアトルの児童保護局への移動が急に決まった。今度は、大きな都市の事務所で、ネイティブ・アメリカンの子どもたちと仕事をすることになった。通勤がずっと短くなるだけでない。ソーシャルワーカーとしてのまったく新しい体験がそこに待っていた。

 エヴェレットの事務所を離れることになり、自分の担当しているケースを次のソーシャルワーカーに引き渡すために整理にとりかかった。気がつくと、ほとんどすべてのケースが”転換期“をむかえていた。オレンジリボンネットの連載に、これまで私は3つの家族についてレポートした。「家族とは、時の流れと世代の交代と共にあらゆる危機を乗り越えながら、つぎつぎに変遷していくものである」ということを、*モニカ・マクゴールドリックなどのソーシャルワーク理論学者たちは唱えている。この3つの家族も、それぞれの解決策をもって”家族発達“の過程の次のステップに大きく乗り出していた。
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