・・続き2
マムの家には女の子の里子もいたが、その里妹は"気がちがってい る"という理由で、家を追い出された。統合失調症だったのだ。わたし
は、小学4年か5年のころ、マムが自分を愛していない、と感じ始め た。5年生のとき、わたしはマムをチャイルドアビュースの加害者だと 訴えた。ソーシャルワーカーは、わたしの言ったことを嘘だと決めつけ
て、わたしがセラピーに行く段取りをとった。中学の1年になったと き、自分の身に起きたすべてのこと、幸福な思い出までもが、わたしを 打ち崩した。
わたしが、マムの孫息子が性虐待の加害者だと発言したことで、わたしはマムの家族から、精神的に疎外され続けた。わたしが家にいるときは、人が訪ねなくなった。家族が外出いている休日、わたしはひとりで家に残るようになった。マムの長女だけが、どんなことが起きようと、わたしとの会話を断ち切らなかった。1997年。その長女が癌で亡くなった。マムの家族はその後、立ち直ることはなかった。わたしは、家族から追放され、他の家で暮らすことを強いられた。
その時はすでに手遅れだった。わたしは修復の余地の無いダメージを受けたのだ。新しい里親の家で、わたしはリストカットをした。首を吊って自殺をはかり、薬物のオーヴァードーズをした。橋から飛び降りようともした。神の力、そして、ふたりの若い男の人たちがそこにいたため、わたしは一命をとりとめた。わたしは13回ぐらい、自殺未遂で入院した。ベッドから起き上がるのがつらくなる日々。わたしは今でも、生き続ける理由を探している。その理由のひとつは、わたしの体験を書き綴ることで、この世には『一人ぼっちの人間はいない』というメッセージを伝えることなのかもしれない。ただ単にサバイバーだからといって痛みは洗われて、つらい日がなくなるわけではない。
ついこのあいだ、ある人からの電話でわたしは救われた。その人はわたしをその時、救ったことを知らなかっただろう。わたしはマムを今でも愛している。彼女との別離から、もう12年がたった。わたしはマムとやり直したい。その気持ちは誰にもわかってもらえない。こんなことがあった後も、マムは実の母親以上にメ母モだったから。わたしにとって、忘れられない日々をくれた人だったから。
この世で、わたしを愛してくれている人はたくさんいる。でも、"母の愛"の欠乏をうめてくれる愛はまだ無い。
<続く>
「奮闘する里親たち」の続きへ
|