シリーズ2 アメリカ児童福祉通信
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粟津
美穂 |
アメリカでは現在、52万人の里子が実親以外の人間と日々生活している。オレンジリボンネットの新シリーズの第3回目は、里子たちを育てている『里親』に焦点をあてた。今回もまず、ディーのエッセイから読んでほしい。
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ディー |
わたしが里親のもとで育ったとき、いろんなことが起きた。里親との生活のたくさんの良い思い出は、わたしの身にふりかかってきた悪夢のような出来事に包み隠されてしまう。でも、わたしは、その里親を今でも深く愛している。親しい友人でさえ、わたしのその考え方が理解できない。わたしも自分の里親を愛する気持ちが理解できない。
わたしは、生後2ヶ月のとき、この里親の家に措置された。わたしにとっては、2番目の里親だったこの人のことを、わたしは"マム"(お母さん)と呼んだ。彼女の夫はすでに亡くなっていたから、親戚の助けをかりながら、女手ひとつでわたしを育てた。わたしを歩行の訓練に連れて行った。わたしは小さいとき2度、肺炎にかかった。マムはそんなわたしに手厚い看護をした。教会でマムの隣にすわって、頭を彼女の肩にのせていたわたし。マムはわたしを教会のコーラスの稽古に連れて行った。わたしは日曜ごとにみんなの前で歌を披露した。身体の抵抗力が低くて、いつも病気していたわたし。マムはそんなわたしのそばにいつもいた。
放課後のプログラムや学校行事でわたしは友達をつくった。ダンス・チームに入って、コンクールで一等賞をとったこともある。外で日の暮れるのも忘れて遊んでいるわたしを、マムが「家に入りなさーい」と呼ぶ声が今でも耳の中に響いてくる。ダンボール箱でクラブハウスを作って、庭にあった木を砦にみたてて遊んだ。近所じゅうの子どもたちが、わたしの家に遊びに来た。マムの家には年上の男の子の里子がいた。わたしはその里兄の新聞配達を手伝った。わたしはサッカーを2年やった。地域のボーイズ・アンド・ガールズ・クラブで、チアリーダーもした。わたしは家に帰るといつも、自分の部屋で歌をうたい、クローゼットに入ってものを書いた。絵を描くことは自分ひとりで学んだ。中学になって、コーラス部と陸上競技のチームに加わり、学校のタレントショーにも出場した。
夏休みも家の中に閉じこもっていたことはなかった。毎夏、サマーキャンプに行った。キャンプに行かない日は、ボーイズ・アンド・ガールズ・クラブで、自由に走り回っていた。ある夏、わたしはジュニア・リーダーになってボランティアをした。キーストーン・クラブのリーダーになったこともある。わたしと里兄は自分の家の庭になっているフルーツをとって、路上で売った。里親の夫だった人は、亡くなる前、庭師だったのだ。
わたしの家の庭には、プラムの木が2種類、そして、桃、ネクタリン、みかん、レモン、杏、なんでもあった。果樹はいつもたわわに実をつけていた。ぶどう棚もあった。ある日、里兄が庭で野ウサギを見つけた。そのウサギは、わたしが後にほかの施設に行くまで、ずっと飼っていた。わたしの生活は、典型的な郊外の子ども時代のように見えるし、実際、そうだったのだ。でも、わたしの後の生き方を長いあいだ左右したのは、良い思い出ではなく、悪い出来事だった。
わたしが4歳半のとき、実の母親の親権が剥奪された。その年、わたしはマムの次女の家に移り住んだ。わたしはその家でマムの次女の長男と、その長男の友達から性虐待を受けた。わたしは行動障害をおこし、マムの家に送り返された。自分のアイデンティティーを失ったわたしの人生は変わってしまった。そのころから、自分は人とは違うのだと感じ始めた。まわりの人の目には、わたしは呆然と気が抜けているように、映ったようだった。わたしはほとんど毎晩、泣きながらベッドにもぐった。ほんとうの母親をさがしあてたかった。里兄はわたしの下着姿の写真を撮った。
ディーの告白「忘れられないこと」の続きへ
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