子ども達から、両親への感謝の気持ちを教わりました (1)
- 全4ページ - 後半:虐待防止の情報「栄養面から診る虐待と暴力」 元児童養護施設職員、里親
長浜 清江

●幼少のころ

 両親に私、弟が2人の5人家族。両親は飲食店を経営していました。一生懸命働く両親の迷惑にならないように、心配をかけないように、と育った気がします。物心ついた頃から、私は弟たちの面倒をみていたのですが、それが半端ではない暴れん坊で、両親の大変さんなんて考えもせず、わが道をゆく弟でした。厳しく叱ってもお構いなし。おかげで「保育士だけは絶対にならない!」と固く心に誓い、子ども嫌いは20歳まで続きました。そんな私が、なぜか保育士になってしまうのだから、人生って面白い。

 父が病気で亡くなったのは、私が小学校6年生の時でした。一番下の弟は当時保育園。母は飲食店を一人で切り盛りしながら、私たち3人の子育てが始まりました。私は小学校4年生の時からお店の手伝いをしてきましたが、尚一層、自分がしっかりして母を助けなければという思いが強くなりました。のちに母は再婚をするのですが、当時は嫌で仕方がありませんでした。

●保育士になる
 保育士になろうと思ったきっかけは、一冊の本との出会いでした。アメリカ人の婦人が児童養護施設をつくり、日本の戦争孤児の子たちの為に生涯をささげたという内容の本でした。えらく感動し、児童養護施設の見学に行ったものの、戦争孤児は現在はいなかったのですね。虐待など心に傷を負った子たちが多くを占めていると知り、自分には荷が重すぎてその子たちを支えていけない、絶対に私には無理・・・と思ったのですが、なぜかのちに児童養護施設で働いてしまうのです。

 学童保育で働きながら保育士の資格を取った後に、市の非常勤で母子寮や肢体不自由の障害者の施設で働きました。絶対に障害者の施設は無理と決めていたのに、これもちょっとした勘違いからなぜか働くことになってしまいました。「絶対に無理」と決めたものに出会うようになっている法則があるようですね。でも、素敵な勘違いでした。

 児童養護施設で働くことになり気づいたのは、子ども達と関わる時に、母はこんな時どうしていたかな、と対応を思い出しながら、関わっていたことでした。日ごろ母がしてくれたことを、子ども達に返している自分がいました。と同時に、母にもっとこんなふうに関わってもらいたかった、という思いもありました。寝る前の本の読みかせなど、多くは、母にとっては忙しくてできなかったことばかりでした。昔を思い出すようなことはそうなかった私でしたが、どうしても、子ども達との関わりのなかで、自分がどんなふうに育ってきたのかを嫌と言うほど思い出してくるのです。なので、忘れていた 父や、母への小さいころの辛い思いも込み上げてくるのです。何でこんなに辛いのかな、というのを探る旅が始まりました。
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