弟・祖父の死
私が4歳の頃、弟は肺炎になり、入院して何日もしないうちに死んでしまいました。丘の上にある火葬場に連れて行かれ、まきの上に、棺おけの中に入れられた弟が横たわっていました。火がつけられ真っ赤な炎が弟を包み込みます。
その後、祖父がなくなり墓の直ぐそばの火葬場で祖父は弟と同じように焼かれてしまいました。そのとき、目の裏に焼きついた思いが今でも忘れられません。小さいとき具合が悪くなりうなされているとき、決まった夢を見ました。
父に怒られ、体を小さくして隠れているとその場所が炎につつまれ、その後凍りつくような場所に出て歩こうと思ってもツルツルにすべり、氷がとがっている場所に出て体中が串刺しにされる所で目が覚めていました。決まってそのときは高熱を出していました。
転 校
小学校時代、父が再度、駐在所勤務となりました。そのため、小学校で3回、中学校で2回の転校を経験しました。転校するたびにその地域になじめず本当に辛い思いをしました。やっと慣れたらまた転勤、転校するたびにだんだん引きこもり不登校気味となり、いじめられないように目立たないようにしていました。
中学3年の夏休みに五島列島の宇久島の駐在所に転勤が決まりました。(前任の人が自殺したため)そのときは、「もういやだ。バァチャンところで暮したい」と初めて言ましたが、聴いてはもらえませんでした。中学でも自分の殻に閉じこもっていました。転校して、辛かったのは、方言が分からず皆に笑われたことでした。遠山軍喜先生が担任のとき「今、信一を笑っている子は、いずれ自分が笑われるときが来る」と言ってもらい、その後も支えてもらいました。私も、この先生のようになりたいと思いました。
高校時代 やっと自分を出せる
同級生の大半は中学卒業と同時に集団就職で各地に散らばっていきました。私も小浜中学校時代旅館をやっている同級生のところに遊びに行き、板前さんの料理みてこの仕事をしたいと思っていて「板前になりたい」と言いましたが「高校を出てからにしろ」といわれました。
私は佐世保の西海学園高等学校に入学しました。高校3年の終わりまで下宿生活でおおいに羽を伸ばした時期です。最初の下宿屋は父に無理に変えられました。3人で一部屋使い、タバコを吸ったり、酒を飲んで、学校にも行かなくなってきていました。それで宇久島の先輩と一緒に下宿することになりました。(今考えると下宿を変わらなければ退学していたと思う)
高校の制服を着て、手相を見てもらいましたが「大学にいけますか?」と聞いたら制服を見て「サイカイセイは無理だ」と言われて、「このやろう」と思い勉強し始めました。大学は薬学部を受け、私立の大学に合格したけど入学金が払えず断念、一浪した後、国公立の大学を受けましたがだめで、東京に出てきました。
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