「こんな子どもでも大丈夫!」   東京大学名誉教授、子どもの虹
  (日本虐待・思春期問題)情報研修センター長
  小林 登

虐待防止に
つながる情報
私から見た日本の児童虐待史(〜続き3)
  その後、悪化するわが国の子ども虐待問題に対応するため、厚生労働省が「日本虐待・思春期問題情報研修センター」を設立することになり、横浜の戸塚にある横浜博萌会の土地に建物が造られ、運営を任されることになった。これは、いわゆる国立民営のナショナルセンターに準ずる施設である。そのセンター長就任の打診を受け、定年退官後4、5年も経っていたので固辞したが、厚労省の強い要請もあって結局引き受けた。名称をソフトにしようとスタッフ一同と話し合って、「子どもの虹情報研修センター」とした。年間20回以上の研修と、情報収集、研究事業、相談事業などを行っている。

 アメリカ、イギリスに留学し、子どもの先天的代謝異常や先天性免疫不全症のような難病問題解決のため、当初はハードな小児科学を目指したが、だんだんに、「子ども学」とか「子ども虐待」といった心の問題に関係するソフトな小児科学の道に入ってしまった。体の続く限り、広く子ども達のより良い幸福のために、もうしばらく頑張りたいと思っている。(了)


セルフケア
セルフケアと趣味
  生活習慣病をもっているので、食事のコントロールと運動中心にセルフケアには注意している。15年前まではジョギングをしていたが、腰を痛めたので、現在は毎日、朝起きた時と眠る前に、テレビのニュースを見ながら、海軍時代の体操を自分で老人向きにしたもので体を動かしている。

 趣味は、特にないが、あえて言えばクラシックの音楽を聴くことである。5年程前まではN響の会員であったが、今では家で時間のある時にCDを聞いて楽しんでいる。特にチェロの曲が大好きである。

  ☆プロフィール
小林 登(こばやし のぼる)
 第二次世界大戦の末期、1943年に海軍兵学校に入り、終戦(1945年)卒業。人生の大転換を迎え、東大医学部に入り1954年に卒業。直後、湖のように静かな太平洋を貨物船で渡り、アメリカ・オハイオ州クリーブランドのカトリック系の病院でインターンを始めた。続いて、クリーブランド市立総合病院、シンシナティの小児病院で勉強し、結局5年間も独身で楽しいアメリカ生活を送った。小児科医を選んだのは、旧制高校時代に育児の神様といわれる内藤寿七郎先生にお会いしたからである。

 1958年末のクリスマスをニューヨークで過ごし、今度はアメリカの立派な客船で日本に帰り、1959年春、東大小児科の助手になった。 普通の人とは逆に、その後春の医師国家試験を受け、やっと日本の医師の資格を得た。アメリカでは、医科大学さえ出れば、医師として病院勤務をすることが出来たのである。
 アメリカ漬けの生意気な私には、帰国後の日本の大学病院勤めは全てが遅れていて、勤務が苦痛というか、悶々の毎日であった。結局ヨーロッパ行きを目指し、1961年から、ロンドンの歴史的なグレートオーモンド小児病院で3年間勉強することになった。そのまま日本脱出も一時考えたが、1965年、ヨーロッパ・北米以外で初めて、アジア地域(東京)で、恩師高津忠夫教授を会頭として国際小児科学会議が開かれることになり、呼び戻されて東大小児科に帰り、大成功を収めたこの国際学会のお手伝いをした。

 しかし、1960年代末近くから、東大医学部でインターン問題が学生や研修医によって取り上げられ、医学部は混乱。それが全学に広がって東大紛争になり、さらに全国的な大学紛争に発展したのである。1969年1月、安田講堂への警察機動隊の導入によって間もなく授業が再開され、全国の大学紛争も徐々に収まっていった。この混乱で遅れていた小児科の後任教授の選考委員会がやっと開かれ、1970年の夏、私は恩師高津忠夫教授のあとを継ぐことになった。

 私が、この様な小児科医としてハレの立場になったことは、恩師や先輩の御指導、多くの人々のご支援があったことは勿論であるが、アメリカ、イギリスの留学で、感染症中心の日本の小児科学に続く、新しい小児科学のはしりを学んできたことも大きかったと思う。東大教授を14年程努めた頃、厚生省(当時)の要請もあって、国立小児病院の小児医療研究センター初代センター長に就任、続いて病院長を拝命し、通算12年も務めさせていただいた。若い時米英の歴史的な小児病院で勉強したので、わが国初の国立小児病院に勤めることは私の夢でもあったが、それも実現出来た。その国立小児病院も定年を3年延長され、現在の国立成育医療センター発足に向けてのグランドデザイン作りをし、医師としての40余年の生活を終わった。

 また、前述の1965年東京で開催された国際小児科学会議の成功もあったと思うが、当時パリに本部のあった国際小児科学会の会長、副会長、理事という要職を、12年間務める光栄までいただいた。そしてその間、世界各地を訪問し、各国の子ども達の姿を直接見るという貴重な体験をすることが出来た。正に、小児科医として冥利に尽きる人生であったと思う。
 この間の体験から、子ども問題の解決には、ある限られた専門家のみでは不可能で、様々な分野の学際的な研究が必要であることを思い知らされた。現在は、いわゆる医療からはやや離れ、いろいろな専門家に話し合いの場を提供したいと考え、「子ども学」「赤ちゃん学」の普及を目指し、日本赤ちゃん学会(Japanese Society of Baby Science)、日本子ども学会(Japanese Society of Child Science)を創立し、その活動の展開に全力投球しているところである。

 国立小児病院退官後、神戸の甲南女子大学で「子ども学」の講義を始めたが、今それは全国の大学に広がりつつある。まだ現役時代の1992年、ノルウェーのベルゲンにおいて、ノルウェー国立子ども学研究所が開催した国際会議“Children at Risk”に出席した折、インターネットを使って子ども問題に関心ある人々をつなぐ取り組みについて話し合った。日本ではまだ創生期であったインターネットに関心を持ち、やはり退官後、甲南女子大学への出講とともに、ベネッセの御支援を得て、それに対応すべく、サイバー子ども学研究所:Child Research Net を設立した。

 現在、日本語版(http://www.crn.or.jp/)、英語版(http://www.childresearch.net/)、
中国語版(http://www.crn.net.cn/index.html)と三つあるので、関心ある方はぜひアクセスしていただきたい。
週3日、Child Research Netの非常勤所長として、子ども問題解決のため、我が国ばかりでなく、英語・中国語のサイトを利用して、国外とも交流している。
 また、週の2日は、「2.子ども虐待防止の情報、私から見た日本の児童虐待史」で述べたように、子どもの虹(日本虐待・思春期問題)情報研修センターの非常勤センター長として、子ども虐待の対応を強化する国の事業のお手伝いをしている。(http://www.crc-japan.net
いずれも私にとっては大切な仕事で、心を込めて、もうひと頑張りしたいと考えている。
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