こんな子どもでも大丈夫! (2)
東京大学名誉教授、子どもの虹
(日本虐待・思春期問題)情報研修センター長
 小林 登

 (〜ライフストーリー続き)厳しい母のもと、今思うと軽い心身症ではなかったかと思うが、手が動かなかったりしたこともあったが、日曜学校の学生さん達と過ごす優しさ一杯の2時間は、厳しさに押しつぶされそうだった私の心を、充分に勇気づけてくれるものであった。余談だが、それから20有余年後のアメリカ留学の折に見たオハイオのカレッジが、同じように美しかったことも思い出す。

  勿論、母も、厳しさの中に母としての優しさのある人であった。妹や弟が幼いころ、母が子守唄をきれいな声で歌っていたのを覚えている。きっと私にも同じように歌ってくれたのだろうと思う。
  また、小学校高学年の頃、我が家にもクリスマスがあって、声楽を勉強していた母の妹が、当時結婚して旧満州に住み、そのころになると必ず送ってくれたロシア・チョコレートと、母からのクリスマス・プレゼントが恒例になっていた。
ある年のクリスマスの夜、母がちょうど小さなプレゼントを枕元に置いてくれたときにふと目が覚め、窓から差し込む月明かりに浮かんだ母の手が見えた。そのときのことは、今でも鮮明に思い出すことが出来る。

  私が幼すぎて、母親の愛情を充分に理解出来ないでいたこともあっただろうと、今になると思う。この後家庭を離れて、海軍兵学校、第一高等学校、東大医学部に進み、アメリカ・イギリスへの留学も含めて、厳しい医師の道を歩むことになるが、どんなときにも、何とか乗り越えられたのは、私に向けた母の厳しさと暖かさのお蔭であると感謝している。そして又、私からも分るように、どんな子どもにとっても、成長過程で出会う親を含めた大人の存在は極めて重要なので、多くの幸せな出会いがあるよう願って止まない。(了)



虐待防止に
つながる情報
私から見た日本の児童虐待史 1
  多少ナラティブになるが、「子ども虐待」が小児疾患のひとつに位置づけられた時代にアメリカで勉強していたので、私が見た事例から述べてみたい。

 1954年に大学を卒業し、その夏、下手な英会話でアメリカのクリーブランドでインターン生活を始めた。2ヶ月程経った、冷たい北風がエリー湖の湖面を吹き始めたある夜、当直室にひとりの白人女性が赤ちゃんを抱いて入ってきた。「子どもがベッドから落ちて肩を打ったので診て欲しい」という。診察すると、確かに痛がって泣く。私の診察を見ていたアメリカ人医師が、全身のレントゲン写真をとれという。何故そんな必要があるのかと迷ったが、出来た写真を見て驚いた。打った肩の上腕骨の骨折は勿論であるが、下肢にも、治りかかった古い骨折が写し出されていた。新旧の多発骨折共存状態である。
  これは後に、ニューヨークの小児科医ケンプによって、新しい疾患“Battered Child Syndromeモとして、1961年のアメリカの小児科学会で発表された事例と同じだったのである。それは、現在の「身体的虐待」であって、それに「心理的虐待」、「ネグレクト」、「性的虐待」などが加わって、現在ひろく「児童虐待」あるいは「子ども虐待」“Child Abuse、or Maltreatment”と呼ばれる子どもの疾患単位になっている。

 医師として初めて、しかもアメリカでインターンを始めたばかりのときに出会った「子ども虐待」の事例は、私にとって確かに大きなショックであった。「何故、豊かなアメリカで」「何故、母親が」「何故、愛を説くキリスト教の国で」と思った。しかし、同時に何故か、日本でもいずれは起こるのではなかろうかと、ふと思った。

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