こんな子どもでも大丈夫!
東京大学名誉教授、子どもの虹
(日本虐待・思春期問題)情報研修センター長
 小林 登

 軽率なことに、伝記(ライフストーリー!)を書くとは考えずに原稿を引き受け、今となっては後悔している。考えてみれば、大学を出てから早くも50余年になってしまったが、子ども時代の話をということなので、振り返ることにする。

 私は、東京世田谷で、医業とは全く関係のない芸術家(日本画家)の家に生まれ、杉並で育った。親が自然を愛し、生活を武蔵野に求めたからである。上に兄がいたが、2歳のとき、広島の母の実家で死亡したので、私は長男として育っていて、妹と弟がいる。妹は華道や茶道を教えたりしていて、弟は父の後を追って日本画家になり、戦争時の疎開で東京を離れたまま、父の郷里の茨城で生活している。血は争えないもので、医師は私ひとりで、家系には芸術家が多く、特に母方には音楽家が多い。

 子どものころというと、武蔵野の雑木林の傍の家を思い出す。蝶や甲虫のいる雑木林の小道を下って行くと、メダカやタナゴの泳ぐ善福寺川の清流があった。その両岸には葦が茂り、夏には、海原のような緑の葉がサワサワと風に波立っていた。家は、画家の常として貧しかったが、豊かな自然に囲まれ、家庭も精神的なものが大切にされていた。社会全体が厳しくなり始めた昭和ひと桁の末から、第二次世界大戦が始まる昭和15・16(1945・46)年頃までのことである。

 貧しさの中でも逞しく生きることが出来るようにと、母は厳しく私を育てた。展覧会前に、十畳の部屋2間をぶっ通しにして、父が大きな絵を描いている姿が思い浮ぶ。真剣な父の脇には、日本画を勉強した母が、絵の具を溶く手伝いばかりでなく、批評家として手伝っている姿もあった。絵に没頭する両親に代わって、ご飯を炊いたり味噌汁を作ったりするのは、小学校に入る前から私の仕事だった。家の掃除もまた私の仕事で、寒い冬の朝の廊下の雑巾がけがつらかったことを思い出す。しかし、私はどんなことにも一生懸命な、素直な「よい子」だったと思う。

 幼稚園の集団生活を体験せずに小学校に入った私は、オズオズとした泣き虫で、初登校の日には校門にしがみついて泣いた思い出がある。勤め人の家庭が多い中で、芸術家の両親、という皆とは異なった家庭文化で育てられたことも関係したと思うが、「いじめ」のターゲットになったことも少なからずあった。もっとも、当時の同級生とは時折会をもつことがあるが、現在では何のわだかまりもなく話をすることが出来る。

  学校生活で今も鮮明に覚えているのは、当時成績は「甲・乙・丙」で評価されていたが、最初にもらった通信簿が「全乙」だったこと。才媛の誉れ高かった母はそれを悲しみ、算数、国語を厳しく教えてくれた。しかしますます萎縮して効果はまったくなし。ついには、父が教えていた師範学校出の美術学校の生徒さんに、いわゆる家庭教師になってもらうことになった。その先生は大変よい先生で、《勉強の仕方》を教えてくださった。“learning to learnモである。私が小学校2・3年生で、先生が出征されるまでの2年間位のことではあったが、お蔭でそれからは、小学校、中学校を通して、体育以外はトップ級でいられた。中学生のときには、路面電車に乗って神田の三省堂などに行き、自学自習の参考書を自分で買うのが三月の常であった。

 母はなぜか私を日曜学校に行かせた。ハイカラ好きの祖母が教会に通っていたが、母はそれには批判的で、般若心経を唱えていた姿を思い出すが、ともかく私は日曜学校に通わされた。昭和10年代に入ったばかりの小学生のころのことである。東京女子大学で学生さんが開いていたもので、我が家から近道をして20分ほど行くと大学の垣根があり、隙間をくぐって入ると芝生の校庭が広がり、その向こうに朝日に輝く美しいチャペルが建っていた。(次へ続く→

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