愛着の絆は何歳になっても作り直せる (2)
東京福祉大学名誉教授、社会福祉学博士 
ヘネシー澄子  
  
  母は小さいころからよく私に本を読んでくれました。おとぎ話など、いろんな本が家にありました。母が言うには、私が2歳ぐらいになったとき、字は読めないんですけれど、すごく暗記していたらしいです。それが、私の学習の基礎になったと思いますね。0歳から6歳までは、脳の大脳辺縁系が作られる大事な時期ですが、母は脳神経回路のことなんか全く知らなかったのに、本を読み聞きかせてくれて、知らずに、私の脳は母によって作られたのです。

  戦争のため、父は横浜に残って母と私たちは田舎に疎開した時期がありました。そのとき、都会から来た子ということで少しいじめられたことがあります。多分そのせいなのだろうと思うのだけれど。「おなかが痛いって」家に帰ったら、「倒れるまでいろ!」って母に連れ戻されちゃって(笑)厳しかったです。「熱もないのにおなかが痛いなんて」って戻されて「こんちくしょう!」って思って、「いじめられたから」って平気な顔して母に言ったら、母が近所の6年生のお姉さんに言ってくれました。私は当時1年生だったので、そのお姉さんが他の子たちに言ってくれて、それでいじめが止まりました。

  今思うと、母は“教育ママ”で、私の達成を自分のものとしていたように思います。だから私は母のために何かやらなくちゃいけないっていう思いがすごくありました。勉強とかいろんなことに対して。
母は三味線のなとりで、自分の娘にもやらせたかったのですが、私は音感がまったくだめで、音痴なんです(笑)。三味線の発表のときに、頭が真っ白になって、何を弾いているのかわからなくなってしまった。それで母もあきらめた(笑)。踊りを習わせてもお師匠さんを蹴飛ばしちゃうし、お花を習わせると、お花のお師匠さんに、「上のお嬢さんは全然芸術性はないですが、下の息子さんはとても筋がよろしい」と言われて。妹も弟も芸術的センスがあるのに、私は全然、右脳が育たなくてだめでした。

―――でもそのことに対して、あまり悲観的にはならなかったのですね。

  はい。私は左脳が発達していたようで、理屈をつけるとか、話をするとか、勉強することはよくできました。私は子どものときに、自己尊重することが、身についていたので、これはできる、これはできないけれど、こっちはできる。それでいいんだ、できる方を伸ばしていけばいいんだと思いました。何もかもできなくても、自己尊重さえあれば、自分で選択して失敗にめげないで前進できるのです。

―――子どものときに、悲しみや淋しい気持ちになった出来事などはありましたか?

  私の子ども時代は、辛い思い出もあります。私が6歳の時に3歳だった妹が亡くなりました。その妹は私よりも活発な子どもでした。妹が亡くなったので、私は祖母のところに少しの間、預けられました。そのときに、「なぜ預けられているのか」ということを説明してもらえなかったのです。それですごく不安感があって、いやな夢を見ました。それをよく覚えています。(次へ続く→3へ

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