愛着の絆は何歳になっても作り直せる (1)
東京福祉大学名誉教授、社会福祉学博士 
ヘネシー澄子  
  
  日本とアメリカを頻繁に行き来しながら、日本の児童福祉に携わる人たちの研修や講演活動を行っている、社会福祉学博士で、東京福祉大学名誉教授のヘネシー澄子さんに、子ども時代のご自分のこと、ご家族のことについてお話を伺いました。ヘネシー澄子さんは、親子が愛着の絆で結ばれることの大切さを伝えていますが、実はそれは、ご自身のご家族のこととも深くつながっていることなのです。(聞き手 箱崎幸恵)

―――生まれたころのことを聴かせていただけますか?

  私は昭和12年に生まれました。戦争が勃発した年でしたが、まだまだ豊かな時代で物もたくさんありました。私は母方と父方の一番最初の孫で、誕生を大変喜ばれました。
父を取り上げてくれたお産婆さんに私が生まれるときもお世話になりました。生まれた日、父が大急ぎで会社から帰ってきて、「男ですか、女ですか!?」って尋ねて、「女です」ってお産婆さんが答えたら、父はそこで「女かぁ〜」って言ったんですって!(笑)そしたらお産婆さんに「そんなもったいないことを!玉のような赤ちゃんが」って言われたって、父はよく話していました。

  父はお産婆さんが私を産湯につからせているところから写真を全部撮って“最初の我が子のアルバム”を作ってくれたのですが、表紙に「おー澄子、おー澄子、お前は何で男ではないのか」って書いていました。だから私は「男の子にならなくちゃいけない」って思って、小さいときからものすごく活発で、歩き方からなんでも男の子みたいでした。

  父は思春期のときに6人の子どもを残してお母さんが亡くなりました。父は2番目の子でした。その頃の習慣で、亡くなったお母さんのお姉さんが、カトリックの修道院に入っていたのですが出てきて、父のお父さんと結婚して、そして父たちを育ててくれたのです。そのおばあちゃんを私もよく覚えていて、とっても優しい人でした。そのおばあちゃんから生まれた子が一人いて、私の最後の生きている伯母なんですが、父はその子が可愛くて、銭湯に連れて行ったりお風呂に入れたり、全部自分でやっていたらしいです。

  そのため、母よりも父のほうが、オムツの取替えや入浴の仕方をよく知っていました。私が生まれたとき、父はこうやってお風呂に入れるんだよ、こうやって赤ちゃん抱くんだよって母に教えていたそうです。私も父から妹や弟の抱き方を教わりました。(次へ続く→2へ

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