・・続き2
わたしのソーシャルワーカーは何度も変わったから、そのころ誰が担当のソーシャルワーカーだったか忘れてしまったけど、わたしは、自分が里親から首を絞められたことを伝えた。そのソーシャルワーカーは、わたしが里親から虐待を受けていない、と無理やり思い込ませようとした。虐待を調査している専門のソーシャルワーカーにも。だから、アビュースは起きなかった、と言ってしまった。誰もわたしを信じなかった。わたしの話を聞こうとしなかった。ソーシャルワーカーが家に訪問にくると、いつも里親がそばにいて、真実を話すことはできなかった。
わたしは、養子縁組されるはずだった、たった一つの里親の家族を離れた。わたしが、里親の家を去ったとき、もうひとつのシステムへの旅が始まった。
新しい里親の家に措置されたわたしは、PTSDと鬱症の診断をうけ、薬剤投与が始まった。ただ死にたい一心だったから、もらった薬をすべて薬用アルコールで胃袋に流し込み自殺しようとした。わたしは精神科病棟におくられた後、カーサ・パシフィカという保護施設に送られた。
わたしはその後、里親のような家庭的な場所に措置されることなく、行動と精神治療のために18歳になるまで、そして大人になった後も数年、施設の中で生活した。
最初の里親の家庭であれだけ自分を裏切られる仕打ちにあったのに、わたしは、人をたやすく受け入れる性格は変わらなかった。施設に措置された後も、自分を受けて入れてくれる人、信じられる人を捜し求めた。グループ施設は、決して完璧な場所では無い。施設は“家庭”ではないからだ。でも、“家族”という暖かな真に人間的な場所にもどれなかったわたしは、施設の中で誰か自分を愛し、信じてくれる人を求め続けた。
そして、システムの中で、わたしを独りの人間として受け止めてくれる人に何人か出会った。
わたしの人生の半分を過ごした最初の、そしてたった一つの“家族”だったあの里親はもう帰ってこない。そのことが心痛となって、今でもわたしを夜中に目覚めさせる。児童福祉システムは、おそらくきっと、たくさんのプログラムをわたしのような青少年たちに提供しているのかもしれなかった。でも、わたしの場合、大きな時の渦に巻き込まれていた人生の変わり目の中で、役に立ったはずの援助を受ける余裕も無く、またたくまに大切な数年が過ぎてしまった。
その結果、大人になっても、独りで奮闘し、もがいているわたしが、ここにいる。
<続く>
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