一人の子どもの涙は、人類すべての悲しみより重い(続き2)
諏訪中央病院名誉院長
 鎌田 實
―――子ども時代に、淋しさを紛らわすために、楽しんでいたこと、好きなことなどは、ありましたか?

友だちは多かったです。鬼ごっこをしたり、ビー玉が流行っていたときは、友だちとビー玉をしました。友だちが宝物だった。友だちを本当に大事にしました。友だちが、自分から離れたら僕は生きていけないと思ったから。友だちを大事にしたので、僕は友だちから大事にされました。僕は子ども時代、友だちに大事にされ、近所のおばさんたちに大事にされました。

 僕は病気の母を見ていたので、医者になりたくて、高三の時に、医学部に行こうと思いました。父親に言ったら、「だめだ」とものすごく怒られました。「貧乏だからだめだ。お金の状況を見たら、わかるだろう」と。
 悔しくて悔しくて、泣いて泣いて、涙が出ないくらい泣きました。別の日に、医学部に行きたいと泣きながら言ったら、父はあんまり泣くので、「好きなようにしていい。その代わり、生活も食べることも、入学金も授業料も自分でやれ」と言われました。厳しいな、と生活の心配もありましたが、自由が一番大切なことだと思いました。何をしてもいい、自分の責任で生きていけと、父に言われたことで、同級生の中で、僕は誰よりも本物の自由を手に入れたのだと思いました。親父との約束は、「家みたいな貧乏人の人、弱い人を大切にする医者になれ」でした。


出生の秘密がわかり、父の見方が変わる
 僕は30歳を過ぎてから、両親が、本当の父親と母親でないことがわかりました。医学部の学生で、自分の血液型を知らないのは、2人ぐらいでした。あのときを振り返ると、なんとなく感じていて、父と母の子ではないことを、知らなくていいと、思っていたのではないかと、今は思います。
知ったときは、ショックでした。それまでずっと親父を恨んでいました。僕を大事にしてくれない、僕を好きではないんだと思っていました。父は「岩次郎さん」と言うんですけど、父が本当の父親ではないことがわかって、人間はすごいな〜と思いました。僕の実の父と母は、僕を育てられなくて、僕が1歳の時に養子に出したのです。生みの親は、僕を放り出したのに、岩次郎さんは、生活が豊かでないのにもかかわらず、僕のことを育ててくれました。
 親父は口下手で、多くを語りませんでしたが、一度も押し付けがましいことを言ったことはありません。僕は反抗期がすごかったけど、それでも育ててくれました。口では厳しいことを言ったけれど、僕が今こうして生きていられるのは、岩次郎さんのおかげです。今はそう思えます。そんな岩次郎さんを理解するのに、50年かかりました。


人間は誰でも獣の部分がある
―――このサイトは、子ども虐待の予防のために作ったのですが、家庭内で起きる暴力の予防についてはどう思われますか?

人間って、同じ屋根の下に住んでいても、お互いを理解するのに時間がかかります。血のつながりがあれば、わかりあえるとは、限らない。お互いに血がつながっていても、別々の人間。お互いにちょっとだけ理解し合おうとしたり、気を使う努力をしないと、家族の心は擦れ違ってしまいます。
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