父の倒れたときを知らない兄は父の変貌振りに激しく失望し、父を攻撃するようになった。そのとき私は、「もう働けない」と泣き崩れる父に「私が働くから、お父さんは家にいてくれたらいいよ」と約束した。大学が終わると、夜中までアルバイトをし、家に帰るとお酒やごみで散らかった家を泣きながら片付けた。そうしていると、兄が父を罵倒する声が聞こえてきた。こんな地獄みたいな日々がいつまで続くのだろうと絶望しながら、誰にも相談できなかった。私には誰かに頼るという選択肢がなかった。
兄が無断欠勤を続け酒を飲み続ける父に「明日から働かないなら、俺がお前を殺す」と言った翌日、父は自宅で首を吊って自殺した。
父の自殺は私を苦しめた。「私がもっと話を聞いていたら・・・」という自責の念と、「私達のことを愛していたら自殺なんてしなかったんじゃないか」という親からの無償の愛の喪失の中で苦しみ続けた。そして私はその苦しみから逃れるために、アルコール依存症者の回復支援という仕事に就くことを決めた。
精神科のソーシャルワーカーとして働き始めた私は、アルコール依存症者の回復支援にのめり込み、そしてすぐに苦しくなった。お酒をやめている人に対して「この人は生きているのに、どうして父は死なないといけなかったのだろう」と感じたり、父と姿が重なって涙が出てきたり、自分ではどうにもできない感情が沸き起こった。それでも誰にも頼れず、自分は空っぽでなんの価値もない人間に思えた。
私はそれまで、「自分は大変な人生を歩んできたけど、それでも普通に生きている特別な強い人間だ」と思っていた。しかし現実は違った。私は自分の弱さを思い知らされ、その弱さを受け入れることが出来ないでいた。
苦しみの中で「これまでの人生の中で私はそうやって生きていくことしかできなかったし、今の私の生き難さは私には責任はない。でも、これから先の人生は私に責任がある。これからは幸せに生きていきたい。」と気づいた。そして自分の苦しみや悲しみから逃げずに、自分の弱さを受け入れ始め、少しずつ、周りの人に自分の思いを伝えるようになった。これまで誰かに受け入れられたことがない私には、「受け入れられずにまた傷つくのでないか」という思いしかなく、それはとても勇気のいることだった。
しかし、心を開いてみると、自分の周りには愛が溢れていることに気づかされた。私が心を閉ざしている間もそばで見守り続けてくれた友人、いろいろな葛藤を抱えながらも一緒に生き続けてくれている家族、私のライフワークとなったアルコール依存症者の回復支援の中で出会った多くの仲間…たくさんの人に支えられて生かされているのだと知った。
子どもは親や家庭を選べない。その環境の中で培われていく価値観や生き方がその子どもにとって大きな荷物になることは少なくない。それはその子どもには何の責任もない。しかし、変わりたいと望めば人は変わることができる。
私はかつて、アルコール依存症の家庭に生まれ育った自分がいつか子どもを持ったとき、自分の子どもに何か悪い影響を与えてしまうのではないかと、得体の知れない不安に駆られていた。しかし今、私は私の人生の主導権を取り戻した。私は今ようやく世代連鎖の鎖を切ろうとしている。(了)(次へ続く→3へ)
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