人生の主導権を取り戻すために (1)
精神科ソーシャルワーカー
引土 絵未
 私の生まれて最初の記憶は、幼稚園の制服を着た私と小学校の制服を着た兄が、朝食のためにトースターの前でパンが焼けるのを待っている場面だ。一見楽しげな一場面だが、その表情は決して明るくない。
 私の両親は幼少期に離婚し、一時は母と兄と三人で暮らしていたが、いつの間にか父と兄と三人の父子家庭になっていた。離婚の原因は父のアルコール問題にあり、酒癖の悪い父は酔って母に暴力を振るっていたようだ。私の記憶では父が酒に酔って暴力を振るったことはないが、父の記憶はいつも酒とともにある。今思えば、父はアルコール依存症だった。それは祖母も伯父も叔父もアルコール依存症という家系が物語っている。

 父子家庭で育った私は、近所や学校で評判の「いい子」だった。今から20年以上前の地方都市の田舎では父子家庭は非常に珍しく、私はみんなと違うことを必死で取り繕うために、学校ではクラス委員や児童会長を努め、家では家事を手伝い、「いい子」であることでどうにか自分を保っていた。
 小学校5年生の夏、私に大きく影響を及ぼす出来事が訪れた。それまで私は家族から「母は病気で入院している」と言われていた。私は母が病気からよくなれば一緒に住めるようになって、みんなと同じになれると信じていた。そのためにお小遣いを貯めて千羽鶴を折りながら母の回復を祈った。それが私の救いだった。

しかし、母はその日、赤ちゃんを抱いて現れ、私は両親の離婚、母の再婚と出産という出来事を一度に知らされることとなった。そのときから私の世界は大きく変わった。世界中で誰も信じることができる人はなく、誰にも頼らず一人で生きていこうと心に決めた。
 私の決意をさらに深めたのは父のアルコール問題だった。父子家庭で私たち兄妹を育ててくれた父は、仕事と家事と育児をこなす真面目な努力家だった。私は、そんな父への尊敬と家ではいつも酒を飲んで酔っていた父への軽蔑と相反する感情の間でいつも葛藤していた。酒を飲むと、いつもの父とは全く違う父が現れ、車をぶつけ、ガラスをけやぶり、大声で怒鳴り、ときには泣いてすがりつき、そんな父に頼ることは不可能だった。こんな幼少期の中で、私は人に対する信頼感を失っていった。

 思春期のころ、兄は非行に走り家族を一切寄せ付けなくなった。そして父のアルコール問題もますます悪化していった。父はお酒とギャンブルによって借金を抱え、とうとう長年勤め父の誇りであった会社を退職せざるをえない状況に追い込まれることとなった。
そのころの私は、父に負担をかけないように、いつもアルバイトをしていた。県内ではそれなりの進学校で周囲は受験一色となった高校3年のときでさえも、勉強に差し支えのない早朝の牛乳配達をしていた。家族の崩壊は、誰にも頼れないという私の思いを更に強めることとなった。

 無事大学に進学し、精神的にも実質的にも徐々に家族の呪縛から離れようとしていたころ、私の2回目の大きな出来事が訪れた。父がアルコール性脳出血で倒れ、どうにか一命をとりとめ入院することとなったのだ。そのころ兄は家を出ていたため、私は父の看病と学校とアルバイトに追われることとなった。 
数ヵ月後父は退院し、兄も実家に戻り再び家族3人での生活が始まることとなったのだが、これが地獄の始まりとなった。父は職場に復帰したものの、後遺症の残る体で思うように働けず、無断欠勤するようになり朝から晩までお酒を飲む生活になった。(次へ続く→

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