汚れちまった悲しみに
臨床心理士  
奥西 久美子  
 私が自分の子ども時代を振り返るとき、いつも心の中がざわざわとしてきます。心理カウンセラーという仕事柄、自分自身の経験や感情を取り出して眺めてみることが多いせいでしょうか。本当は大事にしまっておきたいそれらのものも、ポケットの中に入れて気軽に持ち歩いているような気がします。それらは「客観化」という手垢にまみれた箱に入れられていますので、傷つきやすくはありません。それでもなんとなく心がざわざわしてくる感じがするのは、やっぱり箱を開けるのは気がすすまないのかもしれません。
 
 私は、自分自身が子どもを持つようになるまで、いつも「10才の子どものころに帰りたい」と思っていました。特別な理由があったわけではありませんが、それはもう、叫び出したいほど切実に、そう願っていました。たぶん私は、思春期をうまく乗り越えることができなかったのです。心理カウンセラーなんて、上手に生きている人が就く仕事ではないですからね。

 今どうして思春期をうまく乗り越えられなかったのかを考えてみると、私にはわからないことが多すぎたからであるような気がします。私はそれほど利発な子どもではありませんでしたので、自分が経験していることをうまく整理することができなかったのです。特に自分自身の感情を。
 心のざわつきとともに思い出されることがらがいくつかあります。たとえば小学校5,6年生くらいのころにこんなことがありました。私は夏のある日、9歳年の離れた姉と一緒に電車に乗っていました。どこに向かっていたのかは憶えていませんが、そのころぐんと背が伸びたためにツンツンに短くなってしまったワンピースを着ていたことはよく憶えています。

 その日、私は生まれて初めて痴漢にあいました。電車から降りる間際の一瞬の出来事で、相手の顔もわかりませんでした。ショックでからだがこわばり、後ろから押されるようにして電車を降りたことが思い出されます。電車を降りてから、私は姉に言いました。「お姉ちゃん、私、痴漢にあった」。姉は少し驚いた様子でしたが、すぐに目を背けるようにして「気のせいじゃないの」と言いました。姉のその言葉に私の頭の中は混乱してしまい、目が廻りそうでした。 
  姉がどうしてそんなことを言ったのかはわかりません。もしかすると、姉も突然の出来事に混乱していたのかもしれません。「そうか。お姉ちゃんがそう言うなら気のせいだったのかも。小学生を痴漢する人なんているわけないし」。私はそう思い直し、自分が何かとても恥ずかしいことを言ってしまったように思いました。

 今思い返してみると、「どうしてそんなことを言うの。どうして私の言うことを信じてくれないの」と心の中で叫んでいたような気がします。でもきっと、その時には痴漢にあわなかったことにすることで、その気持ちにフタをするしかなかったのでしょう。子どもだった自分を振り返るとき、子どもという存在がいかに傷つきやすいものであるかを思い知らされます。

 私がそのときに感じた恥ずかしさは、馬鹿な勘違いをした自分の愚かさに対するものであると同時に、些細なことでショックを受けてしまう未熟な自分に対するものであったように思います。そしてまた、話をまともに受けとめてもらえない、ちっぽけな自分に対する怒りもあったような気がします。
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