家族という安全地帯    (1)
民放テレビ局 報道局記者
堀川 雅子
 私の子ども時代。私は田舎(富山県)で育ちました。四季折々の香りを今でも覚えています。“香り”は記憶と結びついているといわれていますが、春は植物が芽吹く生命力溢れる香り、夏はプールのカルキのにおいや汗、レモン、秋になればお祭りの音色が流れ段々肌寒くなる切ない香り。冬はなんとも張り詰めた新鮮な空気の香り、その香りを胸いっぱいに吸い込みながら雪が固まった田んぼの上を同級生たちと学校へ向かいました・・・。
当時の地域には、近所のおばちゃんやおじさん、スポーツクラブの監督、おばあちゃん、みんなで「子ども」を育てる環境がありました。

 私は、かなりの「おばあちゃんっ子」でした。両親が共働きだったため、保育園に預けられ送り迎えをはじめとする生活の全てを、おばあちゃんに面倒をみてもらっていました。祖母は明治生まれで、しつけに厳しく、寺の娘で7人兄弟の長女だったこともあり世話好きのゴッドマザーのような魅力的な人でした。私は、幼少の頃は今とは大違いで、相当な引っ込み思案でした。

 ある日、ガキ大将の男の子に、当時はやっていた「ゴレンジャー」の5人の戦士のうち、唯一女性である「桃レンジャー」になるよう命令されて、それが嫌でいやでたまらず、教室の中のオルガンの陰に隠れたことがあります。今で言うところの「登園拒否」でしょうか、保育園につくや否や、脱兎のごとく園を脱走しました。子どもの足で30分の我が家まで、泣きじゃくりながら走って帰り、押入れの中で息をひそめていました。慌てて帰ってきた祖母は、押入れを「ガラッ」とあけます・・・すると、ニコニコと満面の笑み。何の叱責もなく、それどころか、「よくひとりで帰れたね」とほめられたのです。激しく怒られるとばかり思っていましたが、結果は正反対で、かえって拍子抜けしました。

 祖母との思い出といえばもうひとつあります。当時は、今のような暖冬ではなく冬場は毎日のように雪が降り積もっていました。祖母は、マントを羽織ってその中に私を包み込んで保育園と家の往復を続けてくれました。祖母は小学校、中学校、そして私が34歳のときに94歳で亡くなるまで、人生に大きな影響を与えてくれた存在だと感じています。
 もちろん、母も大きな存在でした。その母にまつわる思い出といえば「レモンのはちみつ漬け」です。小学生の頃には、バレーボールのクラブに所属していたのですが、母も、趣味がバレーボールだったことから、熱心に活動を応援してくれました。母の「レモンはちみつ漬け」は友人の間で好評でした。小学時代はお誕生日会がビッグイベントでしたがそのときには、キャンディーで花束を作ってくれて友達の家に持っていかせてくれました。(次へ続く→

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