少年期の浅層心理   
公立大教員  
津崎 哲雄  
 
さとちゃんちは、多子母子家庭であった。彼も他のきょうだいも、学期中も休み中も農家や商店の雑用を請け負ったり、使い走りをして小銭を稼ぎ、家族を助けていた。きんちゃんは里子であった。自転車屋のご主人が職親で、雑用をこなすかたわら、パンクなおしなど自転車修理(見習い)に励みながら、中学に通っていた。

  ちなみに、広くはない公営住宅で親戚から育てられていた、はじめちゃんは、いまでいう親族里子であった。学校前のタナカさんちは、多子貧困家庭、ぼろ屋に住み、親も子も貧相ななりで、田に畑に一年中働き続けていた。校庭で唯一人、僕の後ろに並ぶ、ごりさんは学年遅れのしょうがい児であり、中卒後に施設に移った。

  野鳥を獲るわなを教えてくれたのは、さとちゃん。秋冬になるといっしょに里山を駆け巡り、あちこちにわなを仕掛け、放課後はそれらを見回り、獲物集めや、わなの増設・改修などに、狩人の眼を輝かせていた。ひよどり、山鳩、つぐみなど何百(千)羽が犠牲になったことか(合掌)。

  自転車修理を教えてくれたのは、きんちゃん。おかげで後に体験した「ちゃりんこ」修理のバイトでは親方にほめられ、自宅パンク修理は当たり前となっている。弓矢遊びで僕があごに矢を的中させ傷を負わせたのは、はじめちゃん。いつしか転校していなくなり、同居先のいとこから今は時折消息を漏れ聞くだけのかかわりだが、よく遊んだものだ。川向こうの杉山で彼とやった弓矢合戦は、矢を放った杉木立から竹やぶ陣地まで、今でも記憶に新しい。 
  40年以上年賀状を施設から送ってくれていたごりさん。ここ2〜3年届かぬので会いに行ったら、筆が執れぬほどしょうがいが重篤化していたことがわかった。貧しいことが必ずしも不幸ではないという事実を垣間見せてくれたのはタナカ家の人々。長女で同級生のかずちゃんはどうしているだろうか。帰省のたびにタナカ家があった辺りを散歩する。

  その他、無断拝借した小船で沖に漕ぎ出し、波風激しく沈没、九死に一生の体験を共有した、ゆきのりとそうちゃんの二人。鳥もちづくりを教えてくれ、いっしょに里山でめじろを面白いように獲りまくったとしちゃんは、後年同窓会でしょうがい児の親になったことを告げてくれた。聴覚しょうがいを克服して療法士となったテルマサは、引っ越してもはや、影も形もなくなった自宅跡を今も時々見に来るという。いつか村から消えたか思い出せない仲好しのせんちゃんは、今思うと北朝鮮に家族とともに戻っていったのだった。(食用のために)野犬殺しの犠牲になった赤犬の死骸を、せんちゃんとよく河原に見に行ったものだ。流行歌をほとんどそらんじていた「かくさん」はみなの羨望の的で、相撲取りにでもなりそうな体格をしていたが、小6で北九州へ引っ越した。

  僕のリビドーを掻き立てた女子同級生については、またの機会に、としておこう。このような団塊世代の同級生や、村のひとびとに囲まれて、僕は多感な少年期を送ることができた。小中学校をともに過ごした150人ほどの同級生、全員の名前と顔は今でもほぼ記憶している。

  工学(中堅技術者養成)から方向転換してこの業界に足を突っ込んだのであるが、そうした決断のルーツをたどると、その根は、高専最終学年時の1年間にわたる児童養護施設ボランティア体験でもなく、そのカトリック系施設で天使のように子どもに仕えるある奉仕女の感化でもなく、ハタチに入信した(求める愛ではなく与える愛とその人格化を教える)基督教でもなく、陸の孤島と呼ばれていたが、天然と歴史と人間に恵まれたK半島の片田舎で過ごした少年期(15歳まで)にあった、と今は思っている。(名前はすべて仮名)




虐待防止に
つながる情報


1)ロジャー・グッドマン『日本の児童養護』明石書店、2006
2)田辺泰美『イギリス児童虐待防止とソーシャルワーク』明石書店、2006
3)イギリス教育技能省の「児童社会サービス大改造案とその実施状況」
   Website http://www.everychildmatters.gov.uk/

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☆プロフィール
津崎 哲雄(つざき てつお)
1949年生まれ、公立大教員、児童養護施策研究者、英国ソーシャルワーク研究会主幹

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