私が子ども時代に一番印象深かったこと、それは母との思い出。母の背中。
私は、物心つく頃、大変、体の弱い子でした。小児喘息だったのです。そして、虚弱体質でもあったようです。
今でも、思い出すことの多くは、私が床で寝ていると母親が看病をしてくれていたこと。
幼い私にとっては、病気で寝ることは苦しみでもありました。しかし、病気が治る過程で母親の私に対するかかわりは大変、心地よいものでもありました。
例えば、よくお腹をこわした時、重湯を作ってくれて食べさせてくれました。そのままだと食べにくいので、ココア味やミルク味にしてくれたことを覚えています。そして、少し回復すると、消化に良いものをと、今度は、ソーダクラッカーを買ってきてくれました。私は、1回に2〜3枚ずつを母親から渡され、塩味しかないソーダクラッカーをゆっくり時間をかけて食べました。そして、やっとお粥やオジヤが食べられるようになって行きます。「卵いりのオジヤを食べて良い」と、医者から許可がおりると、私はもう子どもながらに、至福の喜びを感じたのでした。今でも母のつくってくれたオジヤは、今まで私が食べてどのご馳走にもかなわないといっても良いかもしれません。
そして、最も忘れない思い出があります。それは、深夜や早朝に限って、私は高熱を出したり、喘息がひどくなったのです。そのたびごとに、母は、私を背負い、主治医の門を叩いたのです。寒い日や雨の日はきっと難儀なことだったに違いありません。しかし、記憶に残っている最もいやな思い出として、病院のベッドの上で、おしりに太い注射をうたれてことです。
以上のことについて、詳細は私が大きくなるにしたがって、母が話してくれたから、自分なりに断片的な記憶が、ひとつにつながったのだと思います。しかし、これだけははっきりしている記憶というか、「感覚」として残っているものがあります。それは、私を背負い、病院までの道のりに感じた「感覚」なのです。
不思議なことに、母の背中から伝わってきたそのときの「鼓動」は今でも私の感覚として、ずっと残っています。
私は何度か、「ひきつけ」を起こしたそうです。今のように救急車も呼べず、一刻も早くと私を背負い、必死に病院まで連れて行ってくれた母の背中から伝わってきた「鼓動」。
そんな母を8年前に亡くしました。末期がんの最後の最後まで自分の力で生き抜いた人でした。
最近、私も親として、思うことがあります。私の母は、もうこの世にはいませんが「あなたが考える親子のきずなとは何ですか」と問われたなら、私は「私を背負って、病院まで駆けつけてくれた母の<生きる><生き抜く>鼓動です。そして、私も子どもにそれを伝えたい」と答えるでしょう。
虐待防止に
つながる情報
-お薦めの本- |
私は、現在、千葉県を中心に現場の方々と子ども虐待の防止活動を展開しています。そして、虐待など受けて児童養護施設などを出ても、家庭に帰れない子どもたちの自立を支援するために2年半前に設立されたNPO法人自立援助ホーム『人力舎』の支援会長を引き受け、協力を呼びかけたりしています。是非、皆さんもさまざまな協力をお願いします。
それと、2年ほど前から、フィリピンのストリートチルドレンの援助機関とつながりができました。今まで、2回学生たちをつれて、その子どもたちの施設を訪れて、子どもたちと料理づくりなどをやっています。今後も継続して行きたい活動です。来年もスタディツアーを企画します。是非、仲間を増やして行きたいと思います。
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セルフケア |
こころのケア?そうですね。1昨年から、西表島の北に位置する人口50人の島にハマっています。今年も2回行ってきました。かつて日本テレビ系列で放映された『瑠璃の島』の舞台となった島です。
「何でそんな島にハマっているの?」と聴かれるのですが、「とにかく、行ってみないとわからない」と答えるようにしています。珊瑚礁に囲まれたコバルトブルーの海、ヤシガニや野生ヤギが生息する島。そして、何と言っても私の場合は、朝から堂々と美味しい泡盛を、心置きなく飲めることですね。是非、一度は行ってみて下さい。
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