私は1940年(昭和15年)に兵庫県明石市に生まれました。現在66歳です。日本の敗戦の年に5歳でした。日本の敗戦を直接記憶している最後の世代と言っていいだろうと思います。出征する兵隊さんたちに「勝ってくるぞと勇ましく…」と歌って送り出していったこともよく覚えています。
明石には戦闘機の工場がありました。ですから、戦争中は米軍の空襲の主要な標的だったわけです。戦闘機の工場があったせいで、明石は近畿地区でもっとも空襲の被害を受けたところです。私が4歳になったころから空襲も日増しに激しくなり、小学校に上がった上級生たちから爆弾が降り注ぐなかを命からがら逃げまわった話を聞かされたこともありました。あまりに空襲が激しく、父とともに加古川の防空壕に逃れたこともありました。
敗戦後、6歳になって幼稚園に入りました。当時は、全体が貧しかった時代だと思いますが、私がいたのは農村だったせいか、神戸のほうから米の買い出しに大勢の人たちが押し寄せて来ていました。そのころは米でものが買える状態で、祖母が孫かわいさに私に米をもたせて街のパン屋でパンを買って食べさせてくれたこともありました。
貧しくはあったけれども、そのころを思い出すのは、いまはとても楽しいことです。真冬に袖口で鼻をすすりながらあかぎれもかまわず走り回っていたことや、夏に瀬戸内の海で思い切り泳ぎ回っていたことを今でも思い出します。夜になって海辺でろうそくを灯すとタコが集まってくるのを利用してみんなでタコ釣りをしました。
小学校の高学年のころ、私が家で任されていた仕事は飼っている馬と兎の食料の草取りです。また田植えが終わると、雀追いの仕事が待っていました。雀追いをしながら聞いたラジオ放送で戦争中に獄中に捕らわれていた共産党の幹部が衆議院選挙に立候補するというニュースを聞きました。世の中が大きく変わっていることを実感しました。そのころから世の中のことに深い関心を寄せる一人の少年として育ちました。
私の少年時代のもっとも印象深い出会いは差別との出会いでした。
はじめに書いたように中島の飛行場が近くにあったために、戦時下に朝鮮半島から無理矢理つれてこられて飛行場で働かされていた朝鮮人の集落が近くにありました。「チョーセン、チョーセン、バカにするな。同じ飯食ってどこちがう」という彼らの叫びは今でも耳の奥に残っています。
私もそのことばを口にしました。そのことばを朝鮮人にいえばいうほど、私の脳裏には貧しい朝鮮人の集落とそこで生活する同年代の少年のみすぼらしい姿が刻みこまれ、やがていたたまれない思いがしてきました。自分はよくないことをしていたことを悟ったのです。
朝鮮人差別よりももっときびしい差別として部落差別との出会いがありました。兵庫、とくに瀬戸内海沿岸は、全国でもっとも被差別部落が多く、その規模も大きい地域でした。私が住んでいた街の近くに被差別部落があり、物心ついたころ−−幼稚園から小学校に上がるころ−−には「あこの人は…」「あこの子は…」ということばをいやというほど聞くようになりました。
この差別的なことばは、「お前は、あこの出だろう」と、私と私の家族にも向けられていました。私のルーツは被差別部落にありました。父は敗戦直後、地区からでて、となりの街に居をかまえたのです。当時の社会・世相は、戦前の封建的な身分差別の因習を根強く残したままでした。私は親にこの屈辱的なことを話すこともできず−−親も同じ屈辱をかみしめていたと思うから−−どうしてこのようないわれなき差別があるのだろうかと、悲しみとともに怒りをかみしめていました。
少年時代の体験が、その後の私の生き方を決めたのでしょう。
今思えば、こうした体験が人権問題にこだわる明石書店の原点としてあるのではないかと思います。
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